[#表紙(表紙2.jpg)] 松本清張 球形の荒野 新装版(下) [#改ページ]  球形の荒野(下)      15 「お帰りなさいませ」  久美子が部屋に落ち着くと、ボーイが番茶を持って入って来た。 「何か御用はございませんか?」  べつに無い、と言うと、おやすみなさいませ、とおじぎをしてボーイは引っ込んだ。  ドアを閉める音が、ホテルの夜のなかに微《かす》かに響いた。  ベッドは、白いシーツを見せて端を折ってある。スタンドが淡い光を枕許《まくらもと》に投げていた。  窓際のカーテンをめくると、ブラインドが下りていた。久美子は指を桟《さん》に当てて、間から外を覗《のぞ》いた。まばらな灯が下界に光っていて、山の輪郭が黒かった。星があった。  久美子は、さきほど見た村尾課長の後ろ姿にまだ気持がひっかかっている。後ろ姿を見たというだけではなく、村尾氏がフロントに偽名を名乗ったことだった。あれは確かに村尾氏なのだ。見間違いはない。  役人ともなると、仕事の都合では本名を隠す場合があるのだろうか。村尾氏はスーツケースを携帯していた。ボーイが先に立って、それを提げていたのだが、そのスーツケースからは、円い荷札が下がっていた。  久美子は、今になって、それが国内航空の荷札だと気づいた。村尾|芳生《よしお》氏は飛行機で着いたばかりなのだ。京都に来るには、飛行機だと、大阪から北に少し離れた伊丹《いたみ》に着く。  遅い時間に飛行機に乗ったものである。今ごろこのホテルに着くのだったら、と久美子は時計を見た。十時だった。  東京・大阪間が飛行時間で約二時間、伊丹からこのホテルまでが自動車《くるま》で約二時間と見て、村尾氏は六時前に羽田を発《た》ったのであろう。そんな計算をなんとなく彼女はしていた。  ブラインドの桟から指を外すと、外が塞《ふさ》がった。彼女はカーテンを閉めた。  村尾氏のことを何も気にかけることはないのだ。自分とはかかわりのない人だし、氏が京都に来たとしても不思議ではない。  ただ、多少の縁といえば、村尾課長が曾《かつ》ての父の部下であり、今夜偶然に同じホテルに泊まったという奇縁だけである。  わざわざ部屋を訪問して挨拶することもないのだった。もし、明日、ロビーででも顔を合わせたら、短い挨拶をするだけのことだ。父とのことで母とは割に親しかったが、自分にはそれほど親密な人物ではない。  小さなテーブルに載っている番茶の残りを喫《の》んだ。ホテル中、こそとも音がしない。久美子は、また椅子から起《た》って、ドアに歩いて鍵を掛けた。微かな金属性の音が、この部屋と廊下とを遮断した。  退屈だった。──  すぐ睡《ねむ》る気がしない。警部補の眼から逃れたものの、期待したほどの冒険ではなかった。当たり前なのだ。こうして夜明けまで睡り、外が明るくなって、陽が高くなったころ、駅に急ぐ。  そして、揺れる汽車の中で一日じゅう過ごし、暗くなったころに、東京の自宅に着く。ただ、それだけのことだった。自由がありそうで案外自由のないことを覚った。  こうなると、鈴木警部補にちょっと悪い気がした。警部補はあれからどのように心配したことだろう。善良な警察官なのだ。そうだ、東京に帰ったら、一度謝りに行かねばなるまい、と思った。  久美子は、枕許のサイドテーブルの上にのっている電話機に気づいた。  やはり人の声が無性に聞きたかった。そうだ、添田はどうしているであろう。まだ、新聞社に残っているのではなかろうか。夜勤だと夜明けごろまで勤務するのだ、と彼は言っていた。  受話器を取った。ボーイの声が応《こた》える。ドアを遮断しても、声だけは自由に外と交通できるのは嬉しかった。 「東京を願います」  久美子は新聞社の番号を伝えた。  このとき、廊下に跫音《あしおと》が起こった。それが次第にこの部屋に近づいて来る。一人ではなく、二人以上だった。  ドアにキイを掛けて廻す音が隣で聞こえた。遅い客が入ったようである。男の声がしていたが、無論、言葉はわからない。  ボーイの靴音であろう、それだけがやがて廊下に出た。  ──そうだ、村尾課長はどの部屋に泊まっているのだろうか。  このホテルは五階まである。五、六十室はたっぷりとあるだろう。  もし、村尾氏が偽名でなく本名で記帳していたら、フロントに訊いて部屋の番号を知りたいくらいだった。旅先のことである。  先ほどはそうでもなかったが、こうホテル中が静かになってくると、電話でもかけてあげたいくらいな気持になったから妙だった。先方でも独りで寂しがってることだろうし、不意に声を聞かせたらきっと愕《おどろ》くかもしれない。  しかし、なんといっても、村尾氏が偽名で来ているのが久美子にそれを抑えさせた。やはりこの分では、廊下かロビーで逢って、短い挨拶を交すほかないようだ。  電話が鳴った。  ひとりで夜の部屋にいると、電話のベルが狂暴なくらい高い。ぼんやりしているところを不意に鳴ったものだから、胸がどきりとしたくらいである。 「東京がお出になりました」  ボーイが伝えた。つづいて新聞社の交換台の女の声に変わった。  添田の名前を言うと、しばらくお待ち下さい、と言って声が引っ込んだ。 「あいにくと添田はもう帰っております」  と伝えた。 「そう」  少しがっかりした。 「何かお言づけがありましたら、伝えるように言いましょうか?」  添田のいる部につなぎそうだった。 「いえ、いいんです。では、いずれまた」 「そうですか。失礼しました」  交換台では、京都からと言ったので、夜のことだし、かなり丁寧に応対してくれた。  一度、東京の声を聞くと、今度は母に電話をしたくなった。最初に母に電話しないで添田にかけたのは、どのような気持からか。今になってはじめてそれに気が付くのだった。それに、添田が居ないと知って急に母の声を聞きたくなるのは、満たされないものを次の価値で埋めるような意識だといえそうである。  また電話機を取って東京を申し込んだ。  こうして独りで部屋で声を出しているのは愉《たの》しかった。  ふいに、軽いノックが聞こえた。が、それは隣の部屋だった。  防音装置がそれほど充分ではないとみえて、客の声が洩れて来る。声だけ聞いていると、中年の太い調子だった。ボーイが茶でも運んだようだった。やがて、ボーイだけの靴音が廊下に出た。  久美子は思わず部屋を見廻した。隣室に男客が一人入ったとなると、安全とは知っていても、無意識のうちに眼が部屋の構造を確かめた。  二度目のベルが鳴った。 「もしもし」  電話口に出たのは母だった。この、もしもし、という声だけで母のはずんだ気持がわかった。局が、京都から、と告げたので久美子からと判ったのであろう。 「久美子です」 「そう。まだ京都ね。あなたMホテルに居るの?」  それもホテルの交換台で母には判ったのである。 「ええ、そう」 「まあ、呆れたひとねえ。鈴木さん、ご一緒じゃないんでしょ?」  果して鈴木警部補は久美子の居なくなったことを連絡している。  久美子は、首を竦《すく》め、歯の間から舌を覗かせた。 「鈴木さん、何かおっしゃって?」  彼女は小さな声で訊いた。 「何かおっしゃってじゃありませんよ。あなたが急に宿から居なくなったので、大騒ぎでしたよ。どうしたの、そんなことをして?」 「だって」  久美子が甘えた声になった。 「鈴木さんに、わたくし、見張りをされてるみたいですもの。窮屈で仕方がないわ」 「わがまま言ってるのね。はじめから、その約束で行ったんでしょ。すっぽかしたりなどして悪いわ」 「すみません」  久美子は謝った。 「で、鈴木さん、どうなすったかしら?」  久美子にはそれも心配だった。 「仕方がないから、鈴木さんだけ、今夜の汽車で帰るとおっしゃってたわ。広い京都だから捜しようもないんですって」 「怒ってらしたかしら?」 「そりゃあ」  電話の母の声は、叱るというよりも、久美子から連絡があったので安心がはっきりと出ていた。 「平気ではいらっしゃらないようよ」 「わたくし、東京に帰ったら、鈴木さんのところに謝りに行きます」 「一体、どうしてそんな気持起こしたの?」 「ひとりで京都を見たかったんです。警察の方に見張られていちゃ、気持が沈んで、京都に来た気分になれなかったの。だって折角来たんですもの、久美子ひとりだけで旅の気持を味わいたいんです」 「見物が主な目的で行ったのではないでしょ。手紙の方には逢えなかったそうね?」  それも鈴木警部補から報告があったのだ。 「ええ。三時間ばかり南禅寺でお待ちしたんですけど。とうとう、見えませんでしたわ」  鈴木警部補の罪だ、と言いたかった。余計なお節介をして、あれ程一しょに来ないように止めていたのに、約束を破って警部補が姿を見せたばかりに先方が怒って姿を見せなかったのだ。だが、その説明は電話ではできなかった。 「どうしたのでしょうね」 「先方に御都合ができたんでしょう、きっと」  久美子は当たり障りのないことを言った。 「でも、手紙にあれほど書いてあったのにね」  母は呑みこめないふうだった。その気持は無理もない。わざわざ久美子を京都にやらせたし、そのためには警部補を護衛に付けたのである。  久美子の顔を描いた笹島画伯のデッサンを手渡す、という手紙の申込みのときから、母は久美子を京都にやる決心になっていた。  手紙の文面は普通でなかったが、それを承知で京都に久美子をやらせたのは、母も何かを探りたかったからだ。  だから、久美子が山本千代子という手紙の主に逢えなかった結果に、母の声ははっきり落胆していた。 「もしもし、いまここに、節子さんが来ていますよ」 「あら、節子姉さまが」  母の声は、その節子の声と交替した。 「久美子さん」  節子は、よく透《とお》る声で久美子に呼びかけた。 「お姉さま、来てらしたのね」  久美子は、自然と唇に微笑が出た。 「ええ。あなたのことが心配でしたから」  心配というのは、無論、京都行の首尾を指しているのである。 「残念だったわね」  節子のほうから言った。 「ええ。お逢いできませんでしたの」 「仕方がないわ。……でも、京都はいかが?」  やはり母より若いだけに、節子はいつまでもそのことにこだわらなかった。 「とっても素敵。久美子、今日、南禅寺から苔寺《こけでら》のほうに廻りましたわ。はじめてだったせいか、とても印象が強かったわ」 「よかったわ」  と節子は言ってくれた。 「独りでのうのうとなさったのね」  その言葉には、暗に鈴木警部補をまいた久美子へのたしなめがあった。警部補を護衛につけたのは、彼女の夫の入れ知恵なのだ。 「すみません」  久美子は節子に謝った。いや、節子を通じて、その夫の芦村|亮一《りよういち》に詫びた気持だった。 「いえ、それは構わないのよ。あなたの気持だって分かるわ」  節子は慰めた。 「この間、わたくしも奈良に行ったけれど、今度、久美ちゃんとゆっくり、京都、奈良を廻りましょうね」  そうだ、節子がその奈良を廻ったときに、古い寺の芳名帳から、亡き父に似た筆蹟を発見したのだった。 「嬉しいわ」  と久美子ははずんだ声で言った。 「お姉さま、古いお寺だの、仏さまだの、おくわしいのね。久美子、ぜひ、お姉さまのお供をして、実地見学したいわ」 「それほど物識りではないけれど、久美ちゃんとなら、ほんとに行きたいわ。今度の京都は早く切り上げて帰ってらしてね」 「ええ。明日、夕方には必ず帰ります」 「独りでホテルなどに居て、寂しくない?」 「少し寂しいけれども。でも、やっぱり一晩ぐらいだと愉しいんです」 「そう? 知った方がなくて心細くないかしら?」  その言葉で、久美子は危く村尾芳生氏のことを口に出すところだった。今度もそれを抑えたのは、村尾氏がフロントで偽《にせ》の名前を使ったことからである。その人物が村尾氏に間違いはないと判っても、折角、隠れてきている村尾氏に悪いような気がした。 「いま、お母さまに替るわ。じゃ、元気でね」 「ありがとう」  母の声に替った。 「もしもし、べつに言うことないわ。いま、節子さんが言ったように、早く帰っていらっしゃい。くれぐれも気をつけるんですよ」 「そう。お母さま、御心配なさることないわ。ちゃんと無事に、京都のお土産《みやげ》を持って帰りますから」 「やっぱりあなたの顔を見るまでは落ち着かないのよ。でも、いま、電話で声を聞いたから、いくらか安心したわ」 「そう。やはりかけてよかったのね。では、おやすみなさい」 「おやすみ」  東京の声が消えた。  電話が済んで、久美子は言い忘れたことに気づいた。  電話のときには、ぜひ、それを言いたかったのだが、時間がなかったし、その言葉を挿む余裕がなかった。  今日、苔寺に行った話である。印象が強かったし、それをすぐに母に伝えたかった。苔の美しさと、庭のたたずまいを、自分の口から母に描写してやりたかった。それが出来なかったのが、少々心残りだった。  東京に帰ったら、ゆっくり話せるのだが、やはりじかに受けた強い印象は、時を移さずに言った方がいいのだ。  時計を見ると、十一時近かった。妙に眼が冴《さ》えている。やはり環境が違ったせいか、気持が昂《たかぶ》っているのだった。  久美子は、スーツケースから何冊かの本を取り出した。寝る前には本を読む癖があって、そのために持ち出したのだが、読みかけの本を二、三ページも進まないうちに、もう、活字について行けなくなった。本を読む気持さえできていないのだ。  ホテルは相変わらず少しも音がしない。  隣に入った客は何をしているのか、壁越しにも音がなかった。もう、ベッドにやすんでいるのかもしれない。  困ったことになった、と思った。なぜ、こう気持が落ちつかないのか。睡眠薬でも持って来ればよかった、と思ったくらいである。  こういうことなら、夕方、フランス人夫婦の招待に応じていればよかったと思う。きっと、いろいろな話ができたに違いない。食事も自分ひとりで摂《と》ったような単調なものではなく、愉しいテーブルになったかもしれないのだ。  気骨《きぼね》は折れたことだろうが、馴れない人と食事をした疲れが睡気を早く誘ったかもしれない。考えてみると、今日は、高台寺《こうだいじ》横の旅館を出てからずっとひとりきりなのだ。ひとりで居たことが、かえって未《いま》だに緊張をほどかないでいる。  しかし、このまま起きていても際限《きり》がなかった。その支度になれば睡れるだろうと思って、スーツケースから自分のパジャマを取り出した。これだけがこの部屋で自分の家庭の空気を蘇《よみがえ》らせていた。  このとき、突然、電話の鳴ったのには愕いた。  久美子は、すぐに受話器に手が伸びなかった。時間が時間だし、このホテルに電話をかけて寄越す人の心当たりもなかった。こちらから電話で話しかける分には平気だったが、得体の知れない対手《あいて》から呼びかけられるのは怕《こわ》かった。  電話のベルは必要以上に大きな音を立てている。やっと久美子は、受話器を取って耳に当てた。  すぐに自分の声が出ない。自然と先方の声を待って対手を確かめる気になった。 「もしもし」  男の声だが、それも中年以上の人を想像させた。低い、渋味のある声であった。 「……はい」  彼女は怕々《こわごわ》と返辞をした。がすぐに先方の声が続くかと思われたが、そうではなかった。こちらの返辞を聞いてから声が消えたのだから妙だった。  しかし、電話が切れたのではない。その音はないのだ。  明らかに、先方からは声を出すのを控えているのだ。耳を澄ませたが、受話器には背景からくる音もない。  久美子は、その電話が外線からではなく、このホテルの中からかかっていることに気づいた。外線からだと、交換台がそう告げる筈である。  受話器の奥は、いま、久美子が身を置いている世界と同じように静寂なのである。 「もしもし」  久美子は、たえきれなくなって声を出した。自分が言わないと、先方はいつまでも声を聞かせてくれない。  が、不意に、そこに、音がツーンと入って来た。電話が切れたときの耳に強い金属音だった。  久美子ははじめて受話器を置いた。  胸が騒いでいる。  間違った電話かもしれない、と思ったが、それを先方がこちらに確かめなかったのは妙だった。もしかすると、かけた対手は男の声の応答を期待したのだが、久美子が出たので逸早《いちはや》く間違いを察して切ったのかもしれない。もしも、それだったら、断わりなく切ったのは失礼な話である。  久美子は、そう考えようとした。だが、動悸はまだ静まらないで、胸の中に鳴っていた。  久美子は消すつもりだったスタンドをそのままにして、枕許だけ明るくした。本を読もうとしたが、もちろん活字は眼に入らなかった。  スタンドから遠のいている部分は暗かった。ボーイが窓に丁寧にカーテンを閉めて、客の睡りのために快い闇を作ってくれている。が、明りだけが頼りになっている今は、その暗い部屋の隅を見るのにさえ怯《おび》えた。  ベルが不意に鳴った。二度目だ。  久美子は、電話機を見つめた。受話器が音で震動しているようにみえた。それほど音は真夜中のこの部屋にけたたましい。  今度は、急いで受話器を耳に当てた。 「もしもし」  久美子は、襲撃者に立ち向かっているような気持だった。 「もしもし」  これは向うの声だ。男の、しかも同じ落ち着いた声だった。 「そちらは三原《みはら》さんですか?」  その声は訊いた。 「いいえ、違います」  久美子は、やはり電話の間違いだと知った。切るつもりでいると、先方の声はつづいた。 「失礼ですが、部屋番号は312号室ではございませんか?」  声は丁寧だった。 「いいえ、違います」  こちらの名前も、部屋の番号も、告げる必要はない。違うということだけで先方は納得する筈なのだ。  が、妙なことに、対手はおし黙っている。すぐ切るのでもなかった。  久美子は先に受話器を置くことにした。耳から離そうとすると、受話器からまた声が洩れて来た。 「失礼いたしました」  随分、間《ま》をおいての詫びである。 「いいえ」  完全に受話器を置いてから、久美子は肩を毛布の下に入れた。  電話は二度鳴っている。最初は、もしもし、と言っただけで、そのまま切れ、また信号が鳴ったのである。  その具合から察すると、先方はどうやら目的の部屋番号を確実に知っていないようである。最初のベルを鳴らしてすぐに分かったのは、先方が番号に自信がなかったせいであろう。だが、それで諦めきれずにもう一度、312のナンバーに指を廻したのだろうか。それが何かの間違いで二度ともこの室にかかった。──久美子にはそう考えられる。  しかし、ただの電話の間違いにしては念入りなところもあった。二度かけ直して来たのもそうだったが、こちらがはっきり違うと告げても、先方ではしばらく声を跡絶《とだ》えさせていたのである。恰《あたか》も、電話線の向うからこちらの部屋を窺《うかが》っているような耳さえ感じるのだ。  久美子は急いでスタンドを消した。それから、できるだけ早く睡ることに努めた。  久美子は夢をみていた。  なんでも、それは寂しい町外れの道だった。東京の郊外で、片側にだけ陽が当たっている。遠くに雑木林があった。家の前は長い塀がつづいている。人は歩いていなかった。  夢だから、どういう目的で歩いているのか判らなかったが、とにかく、そんな景色のなかを通っていたことは確かである。すると前方から自動車《くるま》が走って来た。  久美子が見ていると、車はやけに石ころの多い道を走っている。今までの平坦《へいたん》な道が急に小石の多い道になったのも妙だったが、久美子は、ああ、タイヤがパンクするかもしれないな、と思っていた。そう考えている途端に、大きな音が耳もとでした。  夢のなかの音ではなかった。眼が醒めてみて、その音響を現実に感覚が捉《とら》えていたのである。久美子は、眼を開けた。確かに、音は夢ではなく聞こえたのである。灯を消しているので、眼を開けても部屋は真暗だった。  夢の世界と現実とが混じって睡りから醒めることは多い。今の場合がそれなのだ。確かに夢で自動車の走るのをみたが、音響だけは別ものだった。やはりタイヤがパンクしたような音なのだ。現実の音が夢のなかにつづいているというのはどうしたことであろう。現実を予想して、夢が筋を組み立てているのであろうか。  久美子は、耳を澄ませた。現実に音を知った後の感覚なのである。だが、やはり夢のなかの出来事だったような気もする。というのは、眼を開いていて一物も見えないと同じように、周囲からは何の騒ぎも聞こえなかったからである。  変なことになったものだ、と久美子は手を伸ばしてスタンドのスイッチをつけた。久美子が昨夜置いたままの世界が光のなかに映し出された。枕許に置いた本の位置もそのままである。題名の活字も違ってはいない。少し離れた椅子の位置もそのままだった。  久美子は、腕時計を見た。一時十分だった。  ずいぶん睡ったようだが、まだこんな時間か、と思って灯を消そうとしたときだった。久美子は、遠くのほうで微かな音を聞いた。  それは、地面に何かが落ちたような音だった。この部屋は三階なので、地面からはかなり離れている。窓が完全に閉められ、そのうえブラインドがかかり、カーテンが閉めてあるので、あとで考えてみて、その地面に落ちたような音が聞こえたのが不思議なくらいだった。鈍い、低い音だ。  それきりだった。真夜中だが、こういうホテルとなると、夜通し起きている使用人がいる。だから、そんなところで音を聞いたにしても不思議ではなかった。久美子は、スタンドの灯を消した。  それから一分とはかかっていなかった。彼女の耳は、また別な跫音《あしおと》を聞いたのである。今度は地面ではなく、この建物の中だった。  人が忙しく歩いている。それから、どこかの部屋でドアが開く音がした。  妙なことだ、と思った。ホテルの中の客が寝静まっているので、無作法に廊下を駆ける者はない筈だ。それがはっきりと乱れた跫音を聞いたのは、そう考えてから五秒とは経っていなかった。人の声がする。言葉は判らないが、確かに何かの騒ぎが起こっていた。  久美子は、また胸が騒ぎはじめた。じっとベッドのなかに竦《すく》んだようになって、耳だけを澄ませた。騒ぎの声は消えるかと思うと、そうではなく、断続的だが、あとのほうが尻上がりに高くなるのである。  絨毯《じゆうたん》を敷いた廊下なのに、跫音は高いのだ。  このとき、耳のすぐ近くで別の音が起こった。  隣室なのだ。防音装置が不完全なせいか、寝台から跳《は》ね起きる音がはっきりと聞こえた。  久美子が息を殺していると、隣からは声が聞こえた。壁に隔てられているので、よく聞こえなかったが、フロントを呼んでいる声だった。遅く着いた客の声である。  跫音が動いているのは、隣の客が部屋を歩いているのだった。それが急に止んだ。椅子にでも腰を下ろしたらしい。  が、すぐに起《た》って、入口のほうへ跫音が移った。これはドアのキイを外すためだとは、やがてボーイが隣の部屋の前でノックしたことで判った。ドアはすぐに開いたのである。  久美子は、耳に神経を集めた。  お呼びでございますか、とでもボーイが言っているらしい。 「どうしたんだね?」  これは、はっきりと言葉が聞こえた。少し声が高いのである。ボーイの声は低いので、よく判らない。ぼそぼそと何か告げている。 「医者は呼んでいるのか?」  と隣の声が言っていた。  この言葉で、久美子ははっとなった。急病人か、と先に思ったが、すぐに頭に閃《ひらめ》いたのは、夢のなかで聞いたパンクの音と、地面に微かに起こった音とだった。  つづいて男の声は何か言っていたが、これは、ボーイと一緒に廊下に出てからもつづいていた。  もう、はっきりと何かが起こったことが判った。  久美子は、またスタンドを点けた。ベッドから起き上がって、スリッパを穿いたが、どう出来るというのではなかった。椅子に腰掛けてみたが、落ち着かない。  遠くの騒ぎがまだつづいているのである。声と跫音とが混じっていた。跫音は、あとからほかの人間が参加したように階段のほうで動いている。  ドアまで行ってみたが、さすがにキイを廻して開く勇気はなかった。  急病人ではないのだ。明らかに不意の事故が起こっている。  睡っている間に聞いたのは、ピストルの音ではなかろうか──。この考えは、自分で恐怖を起こさせた。唇が白くなった思いである。  じっとして居られなかった。騒動に気づいたのか、すぐ前のほうの部屋からもドアの開く音がする。ずっと端のほうからも人が歩いて、この部屋の前を大急ぎで通った。  久美子は、すばやくパジャマからスーツに着替えた。  小さいときに、近所に火事が起こったことがある。母が睡っている彼女を起こして、万一にと着物に着替えさせたものだ。そのときの震《ふる》えと、今の場合とは似ていた。  電話機が眼に付いた。  すぐ廊下に出るのははしたない、と気付いて、電話機を取り上げた。耳には、ジージー、という通話中の音しか聞こえない。ほかの客が同じ考えで、フロントに事態を問い合わせているに違いなかった。  久美子は、思い切って鍵を廻した。把手《とつて》に手をかけて、ドアを細目に開いた。瞬間、騒ぎの声が高くなった。  それは、この廊下の続きではなかった。中央にエレベーターの口と、その横に階段とがある。久美子の部屋は、その階段の傍から三つ目だった。騒ぎの声は、その階段の上から聞こえていたのである。階下《した》から上がって来る跫音とばかり思っていたが、実は、四階へ上がってゆくそれだったのだ。廊下には灯が点いている。  久美子は、寝巻を着た客たちが四階を目指して上がってゆくのを目撃した。  人びとが集まっているのは、四階の階段を上がって、廊下を右側に殆ど突き当たり近くだった。部屋の上には、405号の標識が出ている。  うす暗い廊下の電灯の下で、部屋の近くに集まっている人間は、十二、三人はたっぷりといた。殆どが男たちで、ホテルの寝巻を着ていた。婦人客もいたが、これも寝巻姿である。  久美子がスーツで来ていたので、ホテルの者と間違えて、 「どうしたんですか?」  と訊く客もいた。  ホテルの者ではない、と言うと、 「あ、お客さんですか。失礼しました」  と質問した客は照れた。  人びとは、みんな銃声を聞いていた。低い囁《ささや》きが、ドアを見つめて立っている客同士のなかで交された。 「びっくりしました。いきなり大きな音がしたんですからね」 「たしかにピストルの音でしょうね?」 「それは絶対です」 「人殺しですね。犯人はどうしたんでしょうか?」  どの顔にも不安と好奇心とが出ていた。  405号室は、ドアをしっかり閉めている。中からは音一つ洩れていなかった。それがかえって無気味さを見る者に誘った。  この四階の客は、殆ど廊下に出ている。各室のドアの前に泊り客が立って、様子を見ているのだった。現に、その隣の404号室は、ドアが半開きになって、婦人客が顔を半分覗かせている。が、向う隣の406号室は、問題の405号室と同じように戸を閉めていた。この部屋からは誰も覗いていないが、内部《なか》で息を詰めているに違いなかった。  急に405号室のドアが開いた。ボーイが出て来た。人びとの眼は一斉にそれに集まったが、ボーイが両手に抱えている洗面器の中を見て、一瞬に低い呻《うめ》きが起こった。洗面器には真赤な水《ヽ》が張られてあった。  血を見て、集まった人びとは、はじめて生々しい現実を確かめたのであった。 「どうしたのですか?」  足早に廊下を行こうとするボーイを止めて訊く者がある。 「はあ、ちょっと」  ボーイは顔を強張《こわば》らせていた。 「この部屋の客が射たれたんだね。そうだろう?」  ボーイは黙ってうなずいた。 「死んだのか?」  人びとに取り巻かれて、ボーイは歩くことができなかった。 「ど、どうぞ、騒がないで下さい」  ボーイは吃《ども》りながら言った。 「騒ぐなって、君、夜中に銃声だろう。愕くのが当たり前だ」 「同じホテルに泊まって、ピストルが鳴ったのだから、これは誰でもびっくりして跳び起きて来る。じっとしていられないよ。犯人はどうした?」 「ご心配かけてすみません。射った人間は居なくなりました」 「遁《に》げたのか?」 「はあ」 「君。その犯人の姿を見たのかい?」 「いいえ」  射った人間が居ないと判って、人びとの顔には安堵《あんど》が出て来た。当然、予想したことだが、はっきりそう聞いて、やはり不安が去ったのだ。 「で、死んでるのかい?」  ボーイの手に持った洗面器の中の血が水の様に揺れている。 「いや、息はあります」  この息があるという言葉で、射たれた人間が重傷だということが判った。 「射たれたのは誰だ? 男の客かい? 女の客かね?」 「男の方です」 「どこの人だ?」 「東京の方です」  ボーイはいらいらして、やっと人びとの輪から脱出をはじめた。 「すみません。そこを通して下さい」  洗面器に血を持っているのだから、当然、人びとは道を開けた。ボーイは大股で階段を降りてゆく。 「東京の人で、男と言ったな」  ボーイの残した言葉を手がかりに、また囁きが客の間で交された。  入れ違いに、二人のボーイと、黒い服を着た事務員とが階段を駆け上がって来た。 「すみません。そこをどいて下さい」  三人の従業員は、405号室に飛び込んだ。無論、ドアは閉まったが、最初に出て来たのは事務員のほうだった。いつもはきれいに手入れをしているに違いない髪が額に乱れかかっていた。 「君」  と弥次馬《やじうま》は事務員を捉えた。 「どんな様子だ?」  事務員は蒼い顔をして自分を取り巻いた人びとを眺めた。 「静かにして下さい。夜中ですから、どうぞ、お引き取り下さい」 「引きとれと言ったって、君、夜中にピストルが鳴ったんだろう。普通のことではない。われわれ同宿者として不安なのは当然だ。説明してくれ給え」  そうだ、と同調する客がいた。 「お客さまが誰かに射たれて仆《たお》れたのです。ピストルは、窓の外側から内部を狙《ねら》って発射されました。しかし、犯人は遁げています」  これは最初の明確な説明であった。 「警察はどうした?」 「もう、すぐ来ると思います。早速、電話で連絡しましたから」 「射たれた人は、生命の点は大丈夫かね?」 「大丈夫だろうと思います。いま、応急の処置をわれわれで取敢《とりあ》えずやっておりますから」 「原因は何だね?」 「それは、われわれでは判りません」 「君、君」  と別な男が性急に訊いた。 「射たれた人の名前は、何と言うんだね? いや、ぼくが知ってる人かもわからないから心配なんだ」  事務員はちょっと迷ったが、 「吉岡さんというんです。宿泊人名簿には、そう書いてあります」  と呟くように言った。  久美子は、その言葉を聞いたとき、顔色を変えた。  吉岡。──  それは村尾課長ではないか。フロントに記帳した名前がそれなのだ。久美子の眼にはまだ、航空会社の荷札の下がったスーツケースと一緒に、エレベーターの中に乗り込んだ村尾芳生氏の後ろ姿が残っている。  茫然としていると、 「もう、このへんで御勘弁下さい」  と事務員が皆に言っていた。 「この隣の部屋に、フランス人のお客さまがいらっしゃるんです。心配するといけませんから、どうぞ、皆さま、お引き取り下さい」  久美子は、また口の中で叫びそうになった。  さっきからドアを閉めている406号室は、久美子が苔寺で逢ったのをきっかけとして、自分を食事に招待しようとしたフランス人夫婦らしいのである。  人びとは、ようやく部屋の前から離れはじめた。久美子が茫然としてその後から階段を降りたとき、表に走ってくるサイレンの音を聞いた。警察官と救急車とが到着したらしい。  ──ピストルで射たれたのは、村尾芳生氏だった。  急なことだし、思ってもみない事態になった。久美子は、歩いている脚がふるえそうになった。  その時だった。  自分の前を歩いているパジャマ姿の背の高い男が、居室のドアの中に入った。この人も今の騒ぎを見物に来た客なのだが、久美子がはっと息を呑んだのは、ちらりと廊下の電灯に映ったその横顔が、以前会ったことのある滝《たき》良精《りようせい》氏であったからだ。  しかも、これが自分の部屋の隣に遅く着いた客だった。      16  被害者は、ベッドの上に横たわっていた。救急車に乗って来た若い医員が傷口を調べていた。医員は血に染まった肩に背を屈《かが》めていたが、 「右|肩胛骨《けんこうこつ》上方の貫通銃創です」  と後ろを向いて報告した。  警官が四、五人立っていたが、うなずいたのは、一番前にいる三十過ぎの警部補だった。 「生命には別条ないですか?」  医員に訊いた。 「大丈夫だと思います」  怪我人は眼をつむっていたが、呻いていた。血はシーツを染めている。  もう一カ所、血が溜まっている場所があった。部屋のほぼ真ん中にクッションがおちて、椅子の下の床に血が垂れていた。その傍にフロアスタンドがあったが、それが溜まった血をぎらぎら光らせていた。  別の警官が、窓際のガラスの割れた部分を調べている。  警部補は、被害者の蒼い顔をのぞき込んだ。 「命には別条ないそうですよ。しっかりなさい」  被害者は、四十を過ぎた男である。宿のパジャマを着ていたが、恰幅《かつぷく》のいい身体と、上品な顔だちをしていた。こういう一流のホテルに泊まるくらいの人だから、社会的に地位のある人か、金持なのである。 「お名前は?」 「吉岡です」  怪我人は、うす眼を開けて警部補の顔を見つめ低い声で答えた。 「吉岡? 吉岡何といいますか?」 「正雄《まさお》です」  警官の一人が、宿泊人名簿から書き抜いた紙片《かみきれ》を警部補に見せた。 「吉岡正雄さんですね。住所は、東京都港区|芝《しば》二本榎《にほんえのき》二の四……そうですね?」  警部補は、怪我人の苦痛を考えて、当人が宿泊人名簿に書いたとおり読み上げた。  その通りだ、というように被害者はうなずいた。 「詳しいことは、入院なさってから伺いますが」  被害者が弱い声でさえぎった。 「入院しなければいけないのですか?」  警部補は、軽い笑いを唇に泛《うか》べた。生命に別条はないと教えてやったが、本人はこれほどの負傷を簡単に考えているらしい。このまま、明日の朝にでも東京へ帰るつもりでいるのかもしれない。 「かなりの怪我ですからね。このまま帰るのは、ちょっと無理ですよ」  警部補は言った。 「応急手当をしていただいて、東京で入院というのは駄目ですか? 飛行機で帰れば、三時間で東京に着きますが」  被害者は、苦痛のなかに頼むような表情になった。 「無理でしょう。命に別条ないといっても、かなりな重傷ですからね」  被害者は何か言おうとしたが、口を噤《つぐ》んだ。痛みが襲って来たためであろう。 「どこで射たれたのですか?」  被害者は、顎で椅子のほうをしゃくった。 「ああ、あそこですね。あなたが坐っていらしたのを、うしろから狙われたというわけですね?」  そうだ、というようにうなずいた。 「ピストルは、窓ガラスの外から射たれている。スタンドに灯を点けて、あなたが坐っているところを狙っているんです。何か本でも読んでいらしたのですか?」 「新聞です」 「射たれる前に、物音を聞きませんでしたか?」  気がつかなかった、というように首を振った。 「犯人に心当たりがありますか?」  これにはすぐに被害者の返辞はなかった。眼を閉じていたが、 「いいえ」  とうす眼を開けて答えた。 「しかし、物盗りとは考えられません。犯人は、最初からあなたを射つつもりでピストルを発射しています。どうか、隠さないで言って下さい。およその見当もつきませんか?」 「全然、心当たりがないのです」  このとき、部屋の中を捜索していた別の警官が、ハンカチに包んだ物を持って来て警部補の前でひろげた。  ハンカチの中には小さな弾丸が載っている。 「その壁の下にめり込んでいました」  巡査は、その位置を示した。窓ガラスの割れた所と、被害者の坐っていた椅子と、その壁の位置とは一直線になっている。被害者の肩胛骨上部を貫いた弾丸は、その壁に射込まれていたのである。  警部補は黙ってうなずき、また被害者のほうへ対《むか》った。 「職業は?」  と宿泊人名簿の書抜きをのぞいた。 「会社員とありますが、どこの会社にお勤めですか?」  返辞をしばらくためらっていたが、 「自分で経営しています」  としばらくして答えがあった。  なるほど、この人品からみると、社長と言っても不自然ではない。 「会社の名前は?」  また返辞に間があった。 「貿易のほうをやっています」 「会社の名前をお訊きしているのです」 「吉岡商会といいます」 「会社の所は?」 「自宅の同番地が事務所になっています」 「なるほど。御家族は?」  被害者は顔を歪《ゆが》めた。傷口の痛みが襲って来たようである。 「妻と、子供が二人です」 「奥さんの名前は?」  被害者は、苦痛と闘うように唇を噛《か》んでいた。 「糸子《いとこ》です」 「着物を縫う、あの糸ですね? 糸子さんですね。奥さんは、あなたがここにお泊まりになってるのをご存じですか」 「知らないでしょう」  と首を振った。 「商用で京都に来ていることは知っていますが、どこに泊まるか予定は知らせておりません」 「ぼくのほうから連絡を取って、奥さんに御通知いたしましょう」 「それは……やめて下さい」  被害者が少し高い声で言った。 「どうしてですか? これほどの大怪我をなさったんですよ」 「いえ、知らせないで下さい」  警部補は、じっと被害者の顔を見つめた。何か深い事情があるらしいと、瞬間に覚った。  入院をしたくない様子といい、家族への連絡を断わることといい、この被害者は複雑な事情をもっているらしい。そのことは、加害者と被害者の関係を想像させた。つまり、この被害者は心当たりはないといっているが、実際は知っているのではないか、という疑いが警部補に起こったのである。  被害者は、医員の応急手当をおとなしく受けている。が、表情には傷の痛み以外の苦痛が顕《あら》われていた。 「今から病院のほうにお運びします」  警部補がそう言ったのは、とにかく、怪我人を移さなければならないからである。  被害者吉岡正雄は、黙ってうなずいた。諦めたような承知の仕方であった。  被害者は、多勢に抱えられて担架に乗せられ、ホテルの表に待っていた救急車に担ぎ込まれた。  あとは、警察の人たちで現場の実況検分書が作られている。血の溜まった所に白いチョークで書く者や、写真機で撮影する者、窓ガラスから椅子までの距離を巻尺で測ったりする者など、独特なあわただしい雰囲気になった。  警部補が指揮している。  階下には、懐中電灯を点けて、犯人の逃走路と思われるところを調べている組もあった。  見取図がざっと作られた。  警官の一人が警部補のところに寄って来て、犯人の逃走路を説明していた。 「犯人は、ホテルの裏側からやって来たようです」  図面の上に指を当てていた。  このMホテルは、道路の横の高台に建っている。裏は山の裾になっていた。従って、裏から侵入するのは容易である。べつに厳重な塀があるではなかった。 「この崖から降りてきたようです」  警官は、ホテルの建物の裏側を示していた。  ホテルは五階になっているが、その途中、ほかの建物が付随しているので、足がかりは幾つもある。突き出た別の屋根が階段型をなしていた。  しかし、405号室の窓際に寄るには、かなりな熟練を要する。一メートル下がほかの建物の屋根になっているが、窓際には僅かな足がかりしかない。敏捷《びんしよう》なものでないと出来ない動作である。  それに、最初からその窓を目的として来たところをみると、犯人が吉岡正雄という人物を狙っていたことは確かである。窓ガラスの破片は、ピストルが極めて近距離から発射されたことを見せていた。その現場から直線を引くと、部屋の見取図の中央に被害者が腰掛けた椅子が書き込まれてある。 「犯人は、ピストルを射ったのち、すぐに、この屋根に匍《は》い降りて、階段型になっている別な屋根に移り、地面に飛び降り、逃走したようです。逃走経路は、侵入路とほとんど同じだと思いますね」  警部補は図面を見て、いちいち、うなずいていた。 「物音を聞いた者はいないかね? これだけ上ってくるには、屋根を踏む跫音や、上るときの物音が必ずしている筈だ」  警部補の言う意味は判った。その跫音で、単独で来たか、発射した人間は一人だとしても地上に見張りの者がいたということも確かめねばならない。  警部補の横に、当夜の宿直主任が立っていた。 「隣は、どういう人が泊まっていますか?」  警部補は訊いた。  隣というのが406号室である。図面で見ると、その部屋の直下が、足がかりになった別棟の屋根の突き出た位置になっている。 「こちらの部屋は、外国人です」  当直主任は蒼ざめた顔で答えた。 「外国人?」 「はあ。フランス人の方です。御夫婦ですが」  警部補は、ちょっと当惑した。日本人だったら、真夜中でも起こして、参考に訊問するつもりだったのである。 「いつまで滞在するのかね?」  警部補は、明日にでも事情を聴取するつもりらしい。 「明日の夕方までになっています」 「むろん、日本語は判らないだろうね?」 「日本語は話せません。通訳の方がついていらっしゃるようですから」 「通訳がいるのかね?」 「ここに御一緒にはお泊まりになっていませんが、見物には、その人が付き添っているようです。この京都の人かどうか判りませんが、朝、このホテルに来ては、夕方までいらっしゃるようです」 「明日も来るだろうね?」 「見えると思います」  警部補は、反対側の隣室、つまり404号室のことを訊いた。 「こちらは御婦人がお一人で泊まっていらっしゃいます」 「日本人だろうね?」 「そうです」  時計を見ると、もう、午前三時に近い。婦人客一人と聞いては、警部補も諦めねばならなかった。 「被害者は」  と警部補は言った。 「つまり吉岡さんは、昨日の夜、この部屋に入ったばかりですね?」 「そうです」 「それは飛び込みですか? それとも、予約ですか?」 「予約です。二日前、東京からお電話をいただいて、リザーヴしました」 「二日前?」  警部補は首を傾けた。さきほど、当人に質問したとき、家族は自分がこのホテルに泊まっていることを知らないと言っていた。それはどこに泊まるか判らないから、という意味に警部補は聞いていた。  二日前にリザーヴしたとすると、ここに宿泊することは決定していたのだ。  警部補は、被害者が家族への連絡を嫌がっていることといい、犯人に心当たりが全然ないと言っていることといい、軽い不審を起こしたようである。 「今日、病院にいって、被害者から、もっと事情を聴かねばならんな」  警部補は呟いていた。  大体の現場検証は終わった。 「指紋は、とうとう検出できませんでした」  窓から外の壁まで真白い粉を叩いていた鑑識係は報告した。 「なにしろ暗いので、もう一度、夜が明けてから出直してみます」 「そうしてくれ給え」  警官の一行は、部屋からやっと引き揚げることになった。 「君のほうも迷惑だな」  警部補は、横に立っている当直主任に言った。 「はあ、どうも」  主任は当惑げな顔をしている。 「こういう事故が起こりますと、ほんとうに、われわれ客商売は困ります」 「しかし、殺しではないから、まあ、いいよ。これで、この部屋が殺人現場になってみ給え。もっと困るよ」 「はい、その点は仕合せだと思っています」  主任は頭を下げた。  別の警官がベッドの横にある洋服ダンスを開けた。そこには被害者の洋服とオーバーとが吊り下がっている。 「病院に運んでやれよ」  警部補がそれを見て言った。  警官が洋服を簡単に畳んでいるところだった。 「おい、ちょっと待て」  何を見つけたのか、警部補はその手を止めさせた。  上衣《うわぎ》の裏を警部補は手でかえしていた。そこには「村尾」とネームが入っていた。警部補は、じっとそれを見つめていたが、 「君」  と主任のほうを向いた。 「この人は、宿泊人名簿では確かに吉岡さんだったな」 「はあ、そうですが」  警部補はその返辞を聞くと、上衣をまた表にかえした。複雑な眼になっていた。 「もう一度、訊くが」  警部補は、また当直主任に言った。 「この人は、このホテルに初めて来たんだね?」 「はい。初めてのお泊まりでございます。今まで、いらしたことはございません」 「ここに泊まってから、外に電話をかけていないかね。または、外から電話がかかったことはないかね?」 「ちょっとその点は調べませんとわかりません」 「それを調べてくれ給え。こちらから掛けた先もわかるだろう?」 「はい。お客様の電話は一々料金を請求しますので、お掛けになった先の電話番号は控えてあります」  警部補はうなずいた。 「荷物はこれだけかね」  洋服ダンスの横にスーツケースが据えてあった。警部補はそれを取り出した。  スーツケースには、航空会社の荷札が下がっている。警部補は荷札を手にとった。それは「吉岡様」とあった。  警部補はチャックに手を掛けたが、これは鍵がかかっている。 「洋服を少し調べよう。君、立ち会ってくれ給え」 「はい」  主任はおとなしかった。  警部補は上衣のポケットに指を入れた。名刺入れが出た。警部補はそれを開いて、かなり部厚く入っている名刺の束を取り出した。  彼は黙ってそれを繰っていたが、また元のままにしてポケットに収めた。 「その荷物や洋服などは大事に病院に届けてあげなさい」  警部補の口調は、少し変わってきていた。  警官たちは、廊下をこっそり歩いて玄関に降りた。このころになると、さすがにほかの宿泊人も、廊下に立って様子を見物しているようなことはなかった。  ホテルとしてはあと始末が大変である。主任はボーイたちを集めて、床の絨毯の血を拭き取っていた。そのあと、ベッドを替えたり、掃除をしたり、ちょっとした騒ぎになった。 「両隣のお客様が寝てらっしゃるから、なるべく音のしないようにやってくれ」  主任は凶事の部屋に立って、ボーイたちを指図していた。  このとき、入口から一人の人物が入って来た。背の高い男だ。宿のパジャマを着ているので客と知れたが、五十過ぎの年配で、上品な容貌をしていた。  勝手に部屋の中にのっそりと入って来た。 「君」  と呼んだのは当直主任にである。 「大変なことになったね」  主任は眉をひそめた。こんな場面を客に見られたくなかったし、それに、この夜中に弥次馬根性を出されてはやりきれない。 「はあ」  うかない顔で応えると、客は勝手に話し出した。 「射たれた人は、大丈夫かね?」 「はあ。生命に別条はないようです」  不承不承に答えた。 「そりゃよかった」  初老の客は、眉を開いたようだった。 「警察が来ていたようだが、犯人の目ボシはついたかね?」 「まだなんです」  主任は、何とかしてこの客を追っ払おうと考えている。 「で、被害者は、たしか吉岡という名前だったな?」  客がそのことを知っているのは、事件直後に、この部屋の前に集まった連中の中にいたものらしい。 「そうです」 「家族との連絡はついたのかね」  よけいなことばかり訊く客だった。こちらはホテルの商売だから、露骨に邪慳《じやけん》な扱いもできなかった。 「なんですか、御本人は、御家族との連絡をお断わりになったようですが」 「ふむ、事情があるんだね」  呟いた客は、前世界文化交流連盟常任理事の滝良精だった。  気難しい顔をしている。眉の間に皺を立てていた。この表情は単なるもの好きではなかった。深刻に心配している。 「君」  とまた主任に言った。 「怪我人は昨夜ここに入ったといったね?」 「はあ」 「この部屋に入って、どこにも出なかったかい?」  主任は嫌な顔をした。幾ら客でもこれは答える義務はないが、その初老の客の顔付きは、一種の威厳めいたものを持っていた。 「別になかったと思います」  当直主任は不承不承に答える。 「客は、つまり、外からの訪問者はなかったかね?」  床を掃除しているボーイが、ちょうどこの部屋の係りだった。会話を耳にして、勢いよく自分から顔を上げた。 「お客様はなかったようですよ」  当直主任は苦い顔をして、ボーイを睨みつけた。 「そうか」  滝良精は立ったまま、ボーイたちが懸命に掃除しているのを眺めている。 「電話はどうだね?」  この質問は、たった今、警部補から受けたものと同じだった。 「それは、調べてみないとわかりません」  主任は突っ放したようにいった。 「交換台に控えがあるんだね。朝にならないと、そっちのほうはわからないわけだな」  滝は独り言のように呟いた。主任は、じろりとその顔を見ている。早く、この部屋から出て行ってもらいたい顔付きが露骨だった。しかし、そのことが客に通じたかどうか、先方は一向に動じなかった。やはり、その場所に立ったままである。何かを懸命に考えているようなふうでもあった。 「隣の客は」  と滝はいった。 「この騒動を知っているのかね?」  主任からすると、余計な質問ばかりである。 「さあ、どうでしょうか」  と意地悪く答えた。 「何しろ、夜中ですから」  睡っているかも知れないという意味だった。 「しかし、君。これほどの騒動だ。ぼくなどはずっと離れたところに部屋をとっていたが、それでも眼をさましたのだからね。隣が知らないわけはない。何か叱言《こごと》をいってこなかったかね?」 「いいえ、何も」  とすまして答えた。 「こちらは」  と一方の壁のほうを顎で指している。 「フランス人夫婦だったな?」  何もかも知っている男だった。 「そうです」 「外国人は神経質だ。こういうことがあると、必ず電話で何かいう筈だが、それはなかったかね?」 「ございません。いっこうに聞きませんでした」 「隣の人は、この騒動があっても様子を見に出て来なかったわけだね?」 「はい、それはありませんでした」  あなたのように物見高い人間はない、とやっつけたいような主任の顔だった。  久美子は、睡りから醒めた。  窓はブラインドを下ろしていたが、わずかな隙間から明りが洩れている。光はカーテンの間から一部分だけ見えた。  時計を見ると、六時半だった。  あれからすぐにベッドに戻って睡ったのだが、浅い睡りだった。  浅い睡りだということは、隣の部屋から人が出て行った気配を憶えている。  あの騒動で廊下を戻りがけにちらりと見たのだが、隣室の客は滝良精氏にひどく似ていた。まさかと思ったが、考えてみると、滝氏がこのホテルに泊まったとしても不思議ではない。ただ、隣合せに泊まったことにあまりの偶然さを感じるだけである。  もし滝氏だとしたら、どうして真夜中に部屋を出て行ったのであろうか。それも事件のすぐあと、彼は、一度は久美子などと一緒に問題の部屋をのぞいている。ほかの客が部屋に引き取ったあとも、彼はまた自室から出て行ったのである。よほど、あの事件に興味をもっているらしい。  ここで、久美子は、はっとなった。  それが滝氏だったら、不思議ではないのだ。被害者が吉岡という人ではなく、村尾芳生氏だとしたら、滝氏とは特別な間柄ではないか。滝氏が心配をして部屋に落ち着けなかったのも道理である。  すると、あの事故の部屋のあるじは、ますます村尾芳生氏になってくる。いや、もう間違いないような気がした。  村尾氏は、なぜ、吉岡と名乗ったのであろうか。そのことは前にも考えたが、この事故が起こってみると、偽名と事故とが密接な関係でつながっているような気がする。偽名を名のったことが、いわばあの事故を予想したようにも取れるのである。  久美子は、手早くパジャマを脱いで、スーツに着替えた。  隣の部屋は、しんと静まっている。耳を澄ませたが、かすかな物音もしない。  彼女はブラインドを上げて、窓を一ぱいに開いた。朝の冷たい、新しい空気が部屋になだれ込んで来た。  京都の朝がそこにあった。東山の裾が墨絵のようにぼけている。朝靄《あさもや》のなかから、寺の屋根や森が裾をぼかして黒い頭だけをのぞかせていた。電車通りには歩いている人が少なかった。自動車《くるま》も通っていない。電車も走っていなかった。この懸軸《かけじく》の中にはめたような美しい景色とは別に、このホテルでは異常なことが起こったのだ。  久美子は、朝のコーヒーを摂《と》って、気分を落ち着かせたかった。しかし、六時半ではまだ早過ぎる。食堂の開始は八時前ごろからであろう。  ドアの隙間に新聞のはしがのぞいていた。彼女は、それを取って開いた。変わった記事はなかった。政治面も、社会面も、この窓の景色のように平和な活字だった。  ふいに電話のベルが鳴った。  時が時だったので、久美子は電気に打たれたようになった。昨夜も電話が鳴った。直感だが、ベルの鳴り方というか聞こえ方で、同じ電話のような気がした。ベルはまだ鳴っている。  隣に寝ている人のことを考えて、久美子は受話器のほうへ歩いた。とにかく、音を止めるために受話器だけは外したが、まだ耳には当てなかった。このためらいは五、六秒もつづいた。  決心して耳につけたが、すぐに声が出ない。 「もしもし」  低い声だった。まさに昨夜聞いた同じ声である。嗄《しやが》れた年寄の声だった。 「はい」  久美子は返辞をした。 「もしもし」  もう一度、向うは呼んでいた。 「はい」  久美子は、少し高い声を出した。かえってそれで気が落ち着いた。  すると、今度は向うが沈黙した。声を出さないのである。それが十五、六秒もつづいただろうか。彼女がこちらから何か言おうとしたとき、電話の切れる音がした。  昨夜と全く同じ電話だった。  久美子は、受話器を置いた。昨夜と違うのは、外から明るい陽が部屋に射しこんでいることである。しかし、電話から受ける気味の悪い印象は同じだった。  昨夜は二度、今朝は一度、同じことが三度つづいた。先方は三度とも電話を間違えたのだろうか。外からかかって来る電話でないことは確かだった。  久美子は、頭を振った。真夜中の事故があって、気分も落ち着かなかった。散歩するつもりで部屋を出た。鍵も入念に掛けた。  ホテルの玄関では、寒そうにボーイが立っていた。 「お早うございます」  フロントの前で、ボーイが久美子を見送った。  久美子は、ホテルの前の坂を下りて、電車通りに出た。自分の部屋の窓から見下ろしているのと、まるで感じが違う。眼の前を、大津行の電車が少ない乗客を乗せて走り過ぎた。  電車通りを渡って、インクラインのあとのある蹴上《けあげ》のゆるい勾配《こうばい》を下りて行った。この辺は林が多い。まだ東山の山間《やまあい》に霧がねばり付いていた。  久美子は、そこから引き返して電車通りに戻った。それに沿って坂を上ると、家が跡切《とぎ》れてくる。山科《やましな》の方角に、なだらかな山があった。  しばらく歩いた。人はあまり歩いていない。野菜を積んだトラックが行き過ぎた。  久美子は、東京の家のことを考えた。今ごろは、母が食事の支度をしているころかもしれない。  散歩は三十分ぐらいかかった。また電車通りを元のほうに引き返した。ホテルの建物が高いところに見える。裏の木立に囲まれた静かな環境だ。ここで昨夜の騒動があったとは、誰が想像するだろう。美しい景色のなかに、穏やかに睡っているような建物だった。  女学生が四、五人、鞄を下げて歩いていたが、優しい京|訛《なまり》だった。  久美子は、ホテルの前を上った。ゆるい坂になっていて、自動車で行くと、そのまま玄関の車寄せに着くようになっている。  久美子が玄関の見えるところまで歩いて来ると、自動車が一台、恰度動き出すところだった。立派な外車である。ホテルの従業員たちが四、五人で見送っていた。滞在客が出発するらしい。  久美子は、玄関に入ろうとして、何気なく自動車の窓を見た。窓には外国婦人の顔があった。久美子が立ち停まったのは、その婦人が苔寺で見たフランス人だったからだ。特徴のある髪の色と横顔に間違いはなかった。  しかし、そのとき、車はもう動き出していた。先方では、久美子がそこに歩いて来たことに気づかぬらしい。車のうしろが反対の坂をすべり下りていた。  このとき、はじめて知ったのだが、うしろの窓に、そのフランス婦人と並んだ男の影が、頭だけを見せていた。  久美子は、昨夜、食事に招待されたことを思い出し、その人がフランス婦人の夫だと知った。南禅寺の縁に腰を下ろして、石組みを凝《じ》っと見つめていた東洋風の人だった。  あのフランス人夫婦は早い出発だった。  もちろん、それは最初からの予定かも知れないが、久美子にはフランス人夫婦の出発が、真夜中の事件に影響されているように思える。  あの騒動のとき、フランス人夫婦は事故の部屋の隣室にいた。真夜中にピストルが鳴り、誰か射たれた。異郷の旅を続けている異国人にとっては、相当な衝撃だったことはいうまでもない。急に予定を変えて出発したと解釈しても不自然ではないようである。  久美子は部屋に帰って、オートミールを頼んだ。  食欲がなかった。何か胸にふさがって咽喉に通らない。半分を皿に残した。  もう、自分も発たねばならない。街を少し歩いてから汽車に乗るつもりだった。支度をして、電話で会計をするように頼んだ。  射たれた人がもし村尾氏だったらと容態が気にかかった。今朝、ホテルが静まりかえっているところをみると、怪我人は病院に運ばれたに違いない。窓越しにピストルを射つ。普通ではなかった。それに村尾氏が「吉岡」と名乗っていることと思い合わせると、平静でいられなかった。  父のかつての部下だし、他人《ひと》ごとではない。できたら、病院にお見舞をしたいくらいだ。が、何といっても、氏が偽名を名乗っていることがそれを阻《はば》む。  ドアにノックが聞こえた。 「お発ちでございますか?」  白服のボーイが現われた。 「ありがとうございます」  銀盆に伝票を載せて差し出した。 「昨夜は大へんでしたね?」  彼女は言った。 「はあ」  ボーイは頭を下げていた。 「ご迷惑をかけました」 「いいえ、でも怪我人はどうなんですか?」 「はい。真夜中に救急車が来まして、病院のほうにお移し致しました」 「怪我はどうなの?」 「よろしいように聞いておりますが」 「よかったわ」  彼女は吐息《といき》をついた。 「お名前は何とおっしゃいますの?」  これは、もう一度、確かめたいのだ。 「吉岡様とおっしゃいます」  やはり、その名前だった。 「加害者は、わかりましたの?」 「いいえ」  ボーイは、まだ二十歳《はたち》くらいで若い頬をしていた。 「あれからすぐ、警察の方が見えましたが、まだはっきりしないようです」 「窓の外から、ピストルを射ったんですか?」 「はい。なんでも、裏山のほうから来たのではないかと、警察のほうではいっています。いま、改めて調べていらっしゃいますが、どうやら、一人ではないようです」 「え、一人ではないんですって?」 「はい。足跡が二人以上だといっております」  ボーイも、この事件に興味をもっている。だから、久美子の質問に乗り気で返事をしていた。 「ところが、お嬢さま。警察の方が変な発見をなさったんですよ」  と彼女のほうに背を屈《かが》めて言った。 「変な発見ですって?」 「はい。窓際に紙片《かみきれ》が落ちていたそうです。警察の方は、射った窓の割れ口から、それを中に入れるつもりだったのが、何かの拍子でそこに落ちた、というふうに考えておられるようですが」 「まあ。その紙片には、何か書いてありましたの?」 「はい。裏切者、とあったそうです」 「裏切者?」  久美子は、呼吸《いき》を詰めた。  村尾芳生が裏切者というのだろうか。 「なんでも、鉛筆で走り書きしてあったそうでございます……けれども、警察ではまだ、犯人がそれを書いたのか、それとも、誰かのいたずら書きがそこに落ちていたのか、判断しかねているそうでございます」 「そう」  話は、それで切れた。久美子は、銀盆の上にお金を載せた。久美子が椅子から起ち上がると、ボーイが彼女のスーツケースを持って先に出て行った。  忘れ物はないかと、部屋の中を見渡した。眼が卓上の電話機に止まった。  昨夜から今朝までで三回鳴った電話である。対手の正体は知れない。嗄《しやが》れた男の声だということが、短い言葉のなかで聞き取れた。わざとしたのか、それとも、間違えた電話なのか、わからなかった。が、三度も同じ電話が同じ調子でかかったことはやはりただごとでなかった。  久美子は、ボーイが出てから二分ぐらいあと、泊まった部屋をあとに廊下に出た。  歩きながら、ふと、隣の部屋を見ると、ドアが開いていた。自分の泊まった部屋と同じように、その部屋も緋《ひ》の絨毯が敷き詰めてある。音が鳴っていた。エプロンを掛けたメイドが、その緋絨毯の上に電気掃除機を動かしていた。  久美子は立ち停まった。  入口に近づいて、中をのぞくようにした。メイドが部屋を掃除しているのだから、泊まり客は留守のようだった。  食堂に降りたのかもしれない。  電気掃除機を押していたメイドは、久美子がそこに立ち停まったものだから、顔を上げた。 「ちょっと伺いますけど」  彼女は声をかけた。 「この部屋のお客さまは、いま、お留守なんですか?」  もし、滝良精氏だったら、何はともあれ、挨拶だけはしたいと思った。 「いいえ」  女の子は首を振った。 「お客さまはお発ちでございます」  あっと叫ぶところだった。 「いつ?」 「はい。一時間前でございます」  一時間前だというと、久美子がまだ電車通りを散歩しているときだ。  そんなに早く発つとは思いもよらなかった。 「あの、こちらのお客さまは、お名前は何とおっしゃいましたの? わたくしの知ってる方かも分かりませんの」  メイドは二人いたが、互いに顔を見合わせていた。 「たしか……川田《かわだ》さんとおっしゃいましたが」 「川田さん?」  名前が違っている。しかし、人違いとは思わなかった。村尾芳生氏の例もある。瞬間に偽名だと覚《さと》った。  しかし、なぜ、村尾氏も、滝氏も、偽名を名乗ってこのホテルに来たのだろうか。  隣室の滝氏は、昨夜の事件に異常な素振りを見せていた。その人があわただしく早朝に発ったのである。なぜだろう。──      17  所轄署の捜査課長が病室に入ったとき、怪我人はベッドの中から顔を少しこちらに向けていた。血色はいい。しかし、見た瞬間の感じでは、苦痛よりも当惑げな表情だった。  こちらは課長だけではなく、主任警部補と刑事の三人だった。  陽当たりのいい病室だ。窓からの陽がベッドの半分を区切って当たっていた。  看護婦が怪我人の枕元の前に椅子を持って来た。 「やあ、御気分はいかがです?」  捜査課長は、いま、医者から容態を訊き、質問をしても差支えないことを確かめてから入って来たのである。毛布の下から繃帯《ほうたい》を捲いた、白い、厚い肩がのぞいていた。 「有難う」  怪我人は礼を言った。髪が乱れている。そのせいか、うすくなった頭の地肌が露出していた。 「大へんな目に遭いましたね」 「ええ」  負傷者は微笑した。しかし、相変わらず当惑げである。瞳も安定していなかった。主任たちは、課長から離れたところに椅子を持ち出していた。  主任が看護婦にそっと耳打ちした。看護婦はうなずいて、ドアの外に消えた。 「お痛みになるでしょう」  課長は同情した。  うしろにいる主任警部補は、被害者とは面識がある。Mホテルの現場に逸早《いちはや》く駆けつけて事情を聴いた男だった。 「吉岡さん」  主任は、この病床訊問者を、被害者に捜査課長だと紹介した。怪我人にはそれがわかっているとみえて、うなずいた。 「ご容態は、ここの院長からいま聞きましたが、軽くて結構でした」 「いろいろ、御心配をかけました」  枕につけたまま、頭を下げるように動かした。 「吉岡さん……とお呼びしたいのですが、本当のお名前は、われわれも承知しているのですよ」  決して強い言葉ではなかった。課長の表情も微笑《わら》っているし、言葉も柔和なのである。  覚悟はしていたようだが、村尾芳生の顔が少し白くなった。  当人が黙っているので、主任が横から口を入れた。 「いいえ、ホテルでお話を聴いたとき、いろいろと御住所などを調べさしていただいたんです。すると、お答えの東京の番地には、吉岡商会というのも、吉岡さんというのも、居住していないことが判りました」 「………」 「失礼ですが、お洋服のポケットから、名刺を拝見しました」  村尾芳生は諦めたような表情だった。課長一行に向けた顔の位置を少し変えて、仰向けとなった。訊問者から見ると、その横顔だけが正面となる。 「村尾さんの……」  課長は言った。  当人は、もう覚悟をつけていただろうが、秘匿《ひとく》している本名を呼ばれて、瞼《まぶた》が神経質にふるえた。 「今度の御旅行は、個人的な御用事ですか?」  課長の態度が丁寧なのは、むろん、被害者が外務省の中堅官僚と知ったからである。 「……そうです。私的なものです」  村尾芳生は低い声で答えた。 「大へん失礼なことをお訊ねすることになりますが、事態がこういうことになっていますので、やむを得ないと御了承願いたいんです」 「わかりました」 「個人的な御旅行の目的について、お答えをいただきたいのですが、もし、お差支えだったら、無理にとは申し上げません」 「その点は、お答えを勘弁して頂きたいんです」  村尾芳生ははっきりと言った。 「わかりました。大へんぶしつけですが、ホテルに別の名前で部屋をお取りになったのも、その私用上の御都合ですか」 「そう解釈していただいて結構です」 「犯人は」  と、課長は横にいる主任警部補から書類を貰ってつづけた。 「Mホテルの裏から南に向かって、山伝いに遁げたようです。御承知のように、あれからずっと南に行きますと、知恩院のほうに参ります。われわれで、翌朝捜査しますと、Mホテルの裏庭についていた靴跡が、知恩院の裏まで続いていました。もっとも、ずっとではなく、ところどころで発見されたのですがね」  村尾芳生は反応を示さないで聞いていた。 「ピストルの弾丸を、あなたが泊まっていらした部屋の壁から取り出しました。アメリカ製のものです。ピストルも、コルトと判りました」 「………」 「窓越しにあなたを狙撃《そげき》した犯人は、あなたが椅子から床に仆《たお》れたのを見て、目的を達したものと思って遁げたようです。この加害者について、あなたに心当たりはありませんか?」 「ありません」  答えは即座だった。 「なるほど。しかし、犯人は物盗りとも思えません。われわれの推定によると、こういうやり方は怨恨関係に多いのです。いや、それが特徴だと言ってもいいでしょう。で、これは、村尾さんにきっとお心当たりがあるんじゃないかと思いましたが」 「ありませんね」  こちらがむっとするくらい、返辞はニベもなかった。 「私用の件に関連しますが」  課長はつづけた。 「内容は承らなくても結構です。ただ、今度のご旅行の目的と、兇行とが、間接的にでも関連があるのかどうか、その点をお訊ねしたいのですが」 「全然、関係はありません」  課長と主任とは顔を見合わせた。被害者の村尾芳生は、明らかに訊問を拒否している。少なくとも、彼は何事かを匿《かく》している。これが警官側の印象だった。  対手は、外務省欧亜局××課長だ。その身分に対してだけでなく、捜査課長が遠慮したのは、外務省という役所のもつ仕事上の機密性だった。  村尾氏は徹頭徹尾、この旅行が私用だと答えている。狙撃事件は無関係だと称し、犯人に心当たりはないと、主張している。  課長が感じたのは、公的な立場にある人間が、しばしば、真実を匿さなければならない局面に身を置いている場合だった。 「村尾さん」  捜査課長は丁寧に言った。 「客観的に申し上げて、ここに、一つの傷害事件が起こったのですよ。しかも、兇器はピストルでした。われわれとしては、職務上、捜査をやらねばなりません。加害者も発見して逮捕せねばなりません。被害者は村尾さんです。事件が起こって、加害者と、被害者とが発生した。加害者の不明な目下の段階では、われわれとしては、被害者に事情を聴くほかはないのです」  村尾芳生は唇を曲げた。 「お差支えない程度で、御協力を願いたいのですが」 「弱りましたね」  というのが村尾芳生の返辞だった。 「まったく、何のために射たれたのか、わたし自身が判らないでいるのです。いろいろお訊きになっても、この御返辞以外に申し上げようがありません。あなたのほうで犯人を逮捕していただいて、当人を訊問し、真相が判って、わたしに聞かして下さったら、ああ、そうかと、はじめて合点することになるだろうというのがいまのわたしなんです」  警察側は全面的な拒否に遭った。 「わかりました、では、お話を伺うのはやめます」  課長は柔和な笑顔を泛べたが、これは、一応の休戦の会釈《えしやく》だった。 「本省のほうに連絡いたしましょうか?」 「いいえ、それには及びません」 「御家族のほうは?」 「どうぞ、おかまいなく。絶対に家内に知らしていただいてはいけないのです。それだけは困ります」  村尾芳生ははじめて懇願的な眼になった。 「ははあ。すると、京都にいらしたのがこっそりした御旅行だったので、それが判ると、御迷惑だという意味ですか?」  村尾芳生に返辞はなかった。  課長が引き揚げてから、病室は二十分ばかり静かになった。陽あしが動いて怪我人の顔に光が当たった。看護婦がカーテンを閉めようとすると、病人はそれを制《と》めた。窓から見えている景色が隠れるというのだ。  窓には京都の屋根が横に展《ひろ》がっている。その中に東寺の五重の塔がそびえていた。  村尾芳生は顔を曲げて窓の景色を見ている。表面、無心そうな顔つきだったが、眼に焦躁の色があらわれていた。  看護婦を呼んだ。 「今日は無理としても、明日の朝なら東京に帰れるかね? いや、無茶だと承知していることだがね」  患者がこの質問をしたのは三度目である。看護婦は困っている。院長は初めから患者の頼みに非妥協的だった。  普通の人ではなく、外務省の地位のある役人と判っていた。当人が帰京したがっているのは、役所の用事が気になるからであろう。だが、とても二、三日の間に動かせる身体ではなかった。  本人は寝ていて冷静なときと、ひどく焦《あせ》りをみせるときとある。──  このとき、怪我人に新しい面会人があった。受付で、絶対面会謝絶と断わったのだが、客は強情にねばっていた。  背の高い、半分白い髪の紳士だった。もの柔らかな態度だったが、執拗《しつよう》なくらい入院患者への面会を言い張った。  看護婦たちでは手に合わず、名刺を出したので、院長が引き出される始末となった。名刺には、「世界文化交流連盟理事 滝良精」とあった。 「五分間でいいんですがね」  滝良精は院長に言った。 「当人は、ぼくと親友なんです。ぜひ、話をしたいことがあります」 「弱りましたな」  院長は迷っていた。 「いや、同じホテルに泊まりましてな。あの騒動を夜中に知りましたよ。射たれた人間が、村尾君とは知りませんでした。あとで聞いてびっくりして、ここにかけつけたのです」  滝は微笑を湛《たた》えて言ったが、その柔らかい身体に感じられる経歴《キヤリア》の貫禄といったものが院長を圧迫していた。 「それが村尾君とわかったのも、実は警察の人に聞いたからですよ。永い時間ではありません。五分間だけ会って帰りたいんです」  院長は謝絶の意志を放棄した。 「よう」  滝良精は病室のドアを静かに閉めると、寝台のほうにゆっくり歩いた。  村尾芳生は寝ているその位置から眼でそれを迎えた。愕きはなかった。当然来る人間が来たという表情だった。  看護婦が、捜査課長に出したように椅子を見舞客のために据えた。 「ひどい目に遭ったな。容態は院長から聞いたが」  滝良精は腰を下ろした。 「気分はいいのか? 顔色は悪くないが」  病人はちらりと看護婦に眼を投げた。 「すぐ失敬するがね。看護婦さん」  と客も彼女を呼んだ。 「少し、外《はず》していただけますか? 五分間、いや、七分間で済みます」  看護婦は病人の毛布を直して、部屋を出て行った。 「煙草|喫《す》ってもいいかい?」 「構わない。灰皿がないが、その辺に何かあるだろう?」  滝良精は、銀のシガレットケースを開いて、一本抜いた。蒼い煙が陽射しと影の部分を縫って昇った。 「おどろいた」  と看護婦を追い払って言ったのが見舞人だった。 「着いたその晩だろう、この騒ぎが。まさか、と思った」  病人の顔を差しのぞいて、 「しかし、大事にならずにすんでよかった。君の顔を見るまでは安心できなかったが。これで、心が落ちついたよ」  村尾芳生は、かすかに首を動かした。肩は板のように不自由にベッドに付けたままである。 「会えたのか?」  滝良精は、覗くようにして低い声で訊ねた。 「会えない。連絡は電話で取れたのだがね。君は?」 「ホテルに着いたのは、夜中だった。汽車の都合で、そうなったのでね」 「東京にいなかったんだって?」 「ああ、信州の山の中に一週間ほどいた。報らせを貰って、すぐ、中央線に乗ったのだが、あの汽車はのろい。それに名古屋からの連絡も悪かった」 「あちらは、どうしてる?」  村尾芳生は、滝の顔を下から見上げた。 「すぐ発ったようだ」  村尾はうなずいた。 「どちらへ?」 「判らない」 「じゃ、置いて行ったのかな?」 「誰のことだ?」 「娘さ。娘を呼んでいたんだ」 「え、どこに?」 「南禅寺で遇《あ》う約束になっていたそうだ。女名前で誘ったのだがね。先方では、その手紙を見てこちらへやってきたんだ」 「で、対面したのか?」  滝良精は、息をのむようにして村尾の顔を横から見つめた。 「出来なかったそうだ。これは電話で当人から事情を聞いたのだがね」  村尾は眼をつむって言った。 「なんでも、刑事らしいのが背後《うしろ》でうろついていたので、止めたんだそうだ」 「ほう」 「先方は当人の身辺を心配して付けたんだろうがね。無理もないが、それがいけなかったのだ。すっかりこちらに警戒心を起こさせたんだ」 「それきりかい?」 「そうじゃない。偶然だが、Mホテルに泊まっていたんだそうだ」 「えっ、その娘《こ》がかい?」  滝良精は眼をむいた。 「おどろいた。じゃ、君……」 「そうなんだ。ぼくが射たれたことも知っている筈だ。もちろん、名前を違えていたから、ぼくとは気がつくまいが」 「どこの部屋だろう?」 「これも電話でマダムから聞いたんだが、325号室だそうだ」 「そりゃ、おれの泊まった部屋の隣じゃないか」  滝良精は叫んだ。 「えっ、君の?」  村尾芳生の顔も、友人の驚愕に倣《なら》った。 「そいつは知らなかった。君の隣室にね」  沈黙が二人の間にしばらく落ちた。  やさしい屋根を海のように並べた京都の窓に、飛行機が翼の一部を光らせて舞っている。  添田彰一は、新聞社で京都版を気をつけて見ていた。  京都版は、大阪本社の管内である。だから、その新聞が東京に着くのは一日遅れてからだった。久美子が京都に出発して以来、添田は、その京都版に気をつけていた。事故を予想したというのではなく、事故がないことを祈りたい気持からだった。  久美子の京都行きは、僅か二日ばかりで、その間に事故を考えるのも大げさだと思うが、その記事を探す気持が起きるほど、彼は久美子の身辺に不安を感じていた。  十一月一日付の紙面には何のこともなかった。彼としては大きな事件記事を期待しているのではない。だから、地方版を探していたのである。  翌日になって、次の新聞が到着した。大阪本社から送付してくる新聞は、管内の各地方版が全部揃っている。京都版はその一つだったが、二日付の紙面にも何の変化もなかった。添田は安心した。しかし、彼の眼は本紙の社会面にふと落ちて、ぎょっとなった。三段抜きで、次のような見出しが出ている。 「Mホテルでピストル騒ぎ、投宿者一名が射たれる──」  記事を読むと、久美子とは関係のないことだった。  Mホテルに泊まっていた吉岡という、どこかの会社の社長が、真夜中に、居室でピストルで射たれたというのである。犯人は四階の窓から室内を狙ってピストルを発射し、吉岡という人を傷つけて逃走した。被害者は肩胛骨のあたりに銃創を受けただけで、生命に別条はない。所轄署で捜査をしたところ、Mホテルの裏から山伝いに知恩院方面へ遁げたらしい犯人の足跡を発見した。目下、犯人を厳探中である、というのだった。  Mホテルといえば、京都第一の観光ホテルだった。京都に来るほとんどの外人が、この宿に泊まる。添田も、泊まったことはないが、その建物は見て知っている。蹴上《けあげ》の高台の木立の中に、風雅な洋風造りで聳《そび》えていた。  記事が大きいので、京都版には載せず、本紙に掲載したのである。兇器がピストルというので、警察でも重大視し、紙面も重要な場所に大きく割《さ》いたものと思われる。  久美子が京都に行っている間の現地での変化といえば、これだけだった。もちろん、久美子とは関係はない。  しかし、添田は、いったん新聞を閉じたものの、それなりに忘れることができなかった。何か心に引っかかって来る。  これは久美子のことを考えて、少し自分が神経過敏になっているのかと思った。もちろん、京都だっていろいろな事件が起こる。それが悉《ことごと》く、久美子に因縁があるとは思われない。このMホテルのショッキングな事件に対しても、彼女がその周辺にいたとは思われない。  久美子の母親の話では、彼女には警視庁の刑事が特に付き添って行ったという。Mホテルなどに彼女が泊まっているとは、考えられなかった。刑事も警戒に付き添っていたことだし、身辺は安全なのである。泊まった旅館も、そのような豪華なホテルではなく、京都らしい日本旅館を択んだに違いない。  こういうことを一応分析して自分に言い聞かせたが、どうも心残りがしてならない。  なぜか。  添田には、羽田空港から伊丹行の飛行機に乗った、村尾芳生氏のうしろ姿が記憶に残っている。それだけだったら、このように気にすることはないが、村尾氏が到着した日が、恰度、久美子の滞在の日である。そして、新聞記事によるピストル騒ぎの起こったのは、村尾氏が伊丹に着いた日の真夜中である。  さらに心にかかるのは、村尾芳生氏が京都で泊まるとすれば、やはりMホテルではないかと思えることである。氏は外務省の役人だし、課長という中堅官僚の身分からいって、Mホテルに泊まる可能性が多い。  村尾氏が飛行機で到着したところは伊丹で、それから先、彼が京都に来たのか、大阪に行ったのか、それとも、神戸に向かったかは判らない。だが、村尾芳生氏と久美子の父親の関係、同氏の伊丹着と久美子の京都滞在の日付の符合、そしてMホテルのピストル狙撃事件の日付、……こういう線がお互いに繋がり合い、牽引《けんいん》し合っている。  新聞には、被害者の吉岡正雄という人の住所が載っていた。港区芝二本榎二の四で、吉岡商会というのを経営している。  添田は、社からすぐ車を出した。新聞に書かれた住所番地を訪ねたのだが、同番地には全然違う人が住んでいた。  そこは自転車屋になっているが、訊いてみると、二十年も前からそこに住みついているのだった。近所にも吉岡商会というのはなく、吉岡正雄という人が住んでいるということも聞かない、と答えた。これは添田が半分は予期したことだった。彼はすぐに社に帰った。  添田は大阪本社に電話をした。  本社の社会部に知った人間がいる。その友人は、幸いデスクだった。  新聞社の電話は直通だから、すぐに出た。 「よう、しばらく。元気かね?」  友人は、突然、添田から電話がかかったものだから、かなりびっくりしているようだった。部署が違うので、日ごろからの連絡もなかったのだ。 「面倒なことを頼みたいが」  添田は、手短にホテルの事を読んだことを話し、 「こちらの同番地には、吉岡正雄という人はいないんだよ。吉岡商会というのもない。そこで、警察のほうのこの発表が間違ってるんじゃないかと思うんだが、ひとつ、訊き合わせてもらえないか?」 「どういうことだね? 君に関係があるのかね?」 「ああ。少し気がかりな点がある」 「そうか。じゃ、すぐ、京都支局のほうへ電話して、担当者に訊いてみよう」 「いや、訊くだけではなく、被害者が偽名を使ってるんじゃないかとぼくは思っている。だから、警察にも、その点を問いただしてもらいたいんだ」 「なんだか面白そうだな。君に心当たりがあれば聞かせてくれ」 「いや、それはない。だが、いま言ったように、ちょっと心配な点もあるんだ。詳しいことは、いずれ落ち着いてから話すがね」 「そうか。とにかく、やってみよう」  電話は切れた。  その大阪からの電話が再びかかって来るまでに、三時間ぐらい間があった。 「やっと、担当者と連絡がついたよ」  と大阪の電話は言った。 「訊いてみると、あれは所轄署の発表どおりに書いたんだそうだ。そこで、君の言ったことを伝えて、所轄署に被害者が偽名を名乗っているのではないかという点を確かめるようにさせた。すると、京都からの返事だがね。やることはやったそうだ。しかし、やはり警察では吉岡正雄という人に間違いないということだった」 「しかしその住所番地には、吉岡という人はいないんだぜ」 「ああ。その点も言っておいたよ。すると、警察では、そんな筈はないと言うだけだったそうだ」 「おかしいな」  添田は、京都支局が案外熱心になっていないことを覚った。自分のところで興味を起こしている事件なら、どこまでも追ってゆくだろうが、東京本社から一個人の考えで依頼されても、気乗りはしないとみえる。  添田は、直接に京都支局の人間と繋がりがあるのだったら、もっとこちらから強力に言えるのだったが、日ごろから縁もないことだし、考え方も違うので、この不満足な返事で諦めねばならなかった。      18  添田彰一は野上家に電話をした。 「あ、今日は。先日はどうも」  電話口に出たのは、久美子の母だった。 「おそくまで失礼いたしました。久美子さんはまだお帰りになっていませんか」 「はい。いまそれをご報告しようと思っていたところです」  母の孝子は、いつもより早口だった。 「久美子は帰って参りましたよ」 「え、お帰りになったんですか。いつです」  添田は、久美子が帰ったなら、当然自分に電話があるものと思っていた。 「昨夜、東京に着きまして、今朝も一時間前までは、疲れたといって寝《やす》んでいましたの」 「そうですか」  久美子は無事だったのだ。今度は、京都に行った用事がどうなったか知りたかった。 「あの手紙の方には、とうとう会えなかったそうです。南禅寺で三時間ばかりお待ちしたそうですが、とうとう、お会いできなかったと言っていました」 「へえ。それは、わざわざいらして残念でしたね」  添田が、久美子に電話口に出てもらおうと思っていると、それを察したように孝子が言った。 「久美子は、いま節子のところに行っています。添田さんにお電話しませんでしたかしら?」 「いいえ」 「どうしたんでしょうね。久美子が節子のところに行く途中にでも、添田さんにお電話を差し上げるものとばかり、思っていましたわ」 「お元気ですか、久美子さんは?」 「ええ」  この、ええ、と言った孝子の返辞が曖昧《あいまい》だったし、躊躇《ちゆうちよ》が感じられた。 「無事には帰ってきてくれましたが、少し、様子がおかしいんですの」  添田は、すぐ新聞記事を思い泛べた。 「どう、おかしいんですか」 「いえ、別に、そう心配することもないと思いますが、何ですか、久美子の様子が沈んでいるんです。元気がないみたいですわ」 「疲れていらっしゃるんでしょう?」  添田は、一応、挨拶としてそう言った。 「わたくしも、そうだと思いますわ。でも、東京を出発したときとはまるで違って、しょんぼりとしているんです」 「先方に会えなかったからではないでしょうか。何しろ、わざわざいらしたんですからね」 「そうかもしれませんね」 「久美子さんと一緒だった警視庁の人は、どうなんです?」 「ああ、そのことはお話ししませんでしたわね」  孝子は気づいたように言った。 「久美子に付き添って頂いた鈴木さんが京都から電話をかけて下さいましてね。京都に着いた翌日の午後でした。急に久美子が勝手に宿を出て行ったという報告でした」 「へえ、それはおどろきましたね。久美子さんにそういうところがあったのかな」 「わたくしも、びっくりしました。鈴木さんも責任上、とても心配していらしたんです。すると、その晩に、久美子から直接電話がありましてね。いまMホテルに泊まっている、と連絡してきたんです」 「なに、Mホテル?」  添田は飛び上がりそうになった。その日といい、場所といい、ピストル事件の現場に久美子が存在しているではないか。  久美子が元気を失くして京都から帰ってきたのも、その事件に原因があるのではなかろうか。いや、それは、あり得ることなのだ。彼女はショックをうけたのだ。 「ぼくは」  と添田は言った。 「夕方、そちらに伺いますよ。久美子さんも、それまでには帰っていらっしゃるんでしょう?」 「はい。帰ってくると思います。こちらから、節子の家に電話しておきますわ」 「そうですか。ぼくの方は、多分、六時ぐらいになるでしょう」  添田は受話器を置いて、何となく興奮を鎮めるために、ポケットから煙草を取り出した。すると、煙草をくわえた直後に、添田の心に泛んだものがある。  それは、蓼科で遇った滝良精氏のことだった。滝氏はまだあの高原にいるだろうか。  晩秋の蓼科の小径を歩いている滝氏の姿が、添田にはまだ鮮明に残っていた。彼とならんで聞かせた、その含みのある言葉も一しょにである。  添田は手帳を見て、滝氏の自宅に電話をした。電話口に出たのは奥さんらしかったが、 「主人は、まだ戻っておりません。さあ、いつ帰るやら、今のところ、予定がわからないんでございますよ」  こちらは添田の名前を出さずに、ただ新聞社名だけを言ったのである。  添田は、次に、至急報で蓼科の旅館に電話を申し込ませた。多分、一時間ぐらいはかかるであろう。こうして時間を消しているうちに、久美子のところに行くのに恰度よくなる。  添田は、今日のうちに片づける仕事に精を出した。だから時間の経過がわからないくらいだった。  蓼科が出た。 「そちらに……」  と言いかけて、そうだ、滝氏は偽名で泊まっていた、と気づき、急いで手帳を繰った。偽名が見つかった。 「山城さんは、まだ泊まっていらっしゃいますか?」 「はあ、山城静一さんでございますか」  宿の女中らしかった。 「山城さんなら、二日前にお発ちになりました」 「二日前?」 「はい、朝早くでございます」 「どちらへ行ったかわかりませんか?」 「はあ、それは伺っておりませんが」 「ぼくは、いつぞや、東京からお訪ねした者ですが」 「あ」  女中は、その言葉で思い出したらしかった。 「失礼しました」 「その後、山城さんに面会人がありましたか?」 「はい、恰度、あなたさまがお帰りになって、すぐあとでございます。東京からと言って、三人づれの方がお見えになりました」 「………」  添田は、蓼科から茅野《ちの》駅に下るバスの中ですれ違った自動車のことを思い出した。車の中には、たしか三人の男が乗っていた。  滝良精は二日前に高原を下ったという。しかも、東京には帰ってない。二日前といえば、もし、彼が京都に行ったと仮定すれば、Mホテルのピストル事件の夜に間に合うではないか。  添田彰一が遅くなって、杉並の野上家を訪ねると、玄関のガラス戸に映ったのが、久美子の影だった。 「今晩は」  添田は逆光の中に暗い久美子の顔に言った。 「いらっしゃい。お電話いただいたそうですが、留守をしていて失礼しました」  久美子はおじぎをした。 「京都は、いかがでした?」 「ええ」  頬に明りをうけた久美子は曖昧に微笑《ほほえ》んでいた。  添田は座敷に上がった。  孝子が手をふきながら出てきた。 「いらっしゃいませ」 「今晩は。夜分に伺って済みません」 「いいえ。昼間、お電話いただいたものだから、もうお見えになると思ってお待ちしてたんですよ」  久美子の姿は戻って来ず、台所で茶の支度でもしているらしかった。 「久美子さん、少しはお元気になりましたか?」  添田はそっと孝子に訊いた。 「ええ、京都から帰って来た時ほどではありませんが、やはり、出発前のような元気は取り戻せないようです」 「そのうち元気になられるでしょう」  添田は慰めた。 「そのことで、実は伺ったんですが、これはお母さまにあらかじめお願いしたいんです」  添田はやはり低い声で言った。 「何ですか?」 「少し、久美子さんに訊きたいことがあるんです。お母さまの前では、久美子さんもはっきりとお答えできない事情もあるように思います。いや、別に悪いことでお母さまに言えないという意味でなく、別な理由があるように思われます」 「………」 「それで、ぼくはすぐここをお暇《いとま》しますが、その辺を久美子さんとご一緒に歩きたいのです。そのお願いですが」 「わかりました」  孝子はうなずいた。 「どうぞ、伴《つ》れていって下さい。添田さんから話をしていただくと、あの子も元に戻ってくるかもわかりませんわ」 「いや、そんな」  添田は頬を赧《あか》らめた。 「ぼくは、ただ久美子さんが京都でどんなことがあったかをいろいろと聞いてみたいのです。これは、ぼくなりに、一つの考えを持っていますから」 「そうですか、わかりました」  しかし、それは添田の口実だった。話は、孝子の前ではいえないのである。 「済みません」  久美子が紅茶を持って入ってきた。 「何もございませんが、添田さんがいらっしゃると思ってその辺からケーキを取っておきましたが、田舎ですから、おいしくありませんわ」 「ほう、それはご馳走ですな。久美子さんは、京都はどちらに行きましたか?」  添田は明るい声で訊いた。久美子は少し眼を伏せたが、 「お寺を見て参りましたの」 「寺はどちらです?」 「南禅寺から苔寺のほうですわ」 「それはいいことをしましたね。今ごろの京都はいいでしょう?」 「ええ」  久美子は言葉少なかった。孝子は茶碗を手にもっていた。 「突然、出発されたので、ぼくはびっくりしましたよ」  添田は笑いながら言った。 「でも、京都と伺って安心しました。やっぱり、京都の古い寺はひとりで見るもんですね」 「ええ」  久美子は短い返辞しかしなかった。 「ぼくも、駅からここに来る途中見たんですが、今ごろのこの辺はいいですな。裸になった雑木林の欅《けやき》の梢が真直ぐに夜空に立っているんです。それに、気温のせいか、薄い霧が遠くの森にかかっているんです。これは、もっと歩きたくなりましたね」 「あら、添田さん」  と孝子が気を利かして言った。 「だったら、久美子と一緒にその辺を歩いていらっしゃいません?」 「そうですか。久美子さんさえよかったら、ご一緒に歩いてみたいな」 「どう、久美子、お供したら?」  久美子の表情が一瞬に動いた。  その僅かな変化を添田は見逃さなかった。久美子がこちらの意図を見抜いていると思った。 「ええ、参りますわ」  彼女は唾をのみこんだようにして答えた。 「では、ちょっと」  添田は孝子のほうに眼を向けた。 「どうぞ、ごゆっくりと歩いていらっしゃい」  添田は久美子を誘うように膝を立てた。  孝子は二人を玄関まで見送った。そこだけ明るい灯がこぼれていた。  この辺は花柏《さわら》の生け垣を廻《めぐ》らした家が多い。雑木林がところどころに黒い影となって、空に伸びていた。  二人はしばらく黙って歩いた。なま温かい晩だった。仄白《ほのじろ》い道は幾つも曲がっていて、四つ辻が多い。  添田は、ゆるやかな坂道を下った。片側は大きな邸があって、そこには自然林のような植込みがあった。  久美子は添田のすぐ傍で肩を並べていた。いつもはもっと元気なのだが、やはり歩いていても首をうなだれがちだった。  添田は夜気を肺の奥まで吸い込むようにした。 「京都は」  と添田はゆっくりと足を運びながら、久美子に言った。 「どういう結果でした?」  南禅寺の一件を承知していることを、その一言が彼女に伝えていた。 「母からお聞きになったの?」  久美子は低い声で訊いた。 「あなたが、京都に発たれたあと、お母さまから話を聞きました」 「そう」  ヘッドライトが後ろから走ってきて、道に二人の影を映した。 「お会いになれなかったそうですね?」 「ええ」  久美子はかすかにうなずいた。 「どうしたんでしょう。わざわざ、京都に呼びつけておいて……まさか、あの手紙が悪戯《いたずら》というわけではないでしょう?」 「ご都合があったのだと思いますわ」 「しかし、それにしても、先方が少し気儘だと思いますね。あなたが来ることは向うもわかっていたと思うんですが」  川があった。石に堰《せ》かれたところだけ水が光っていた。  二人は短い橋を渡った。 「お母さまには何もいってないそうですね。ぼくだけに話して下さい」  添田は久美子の横顔を見て言った。  久美子は黙っていた。なぜか、そのことでは妙に頑固なのである。二人はまた暗い家の通りを進んだ。  ゆるい勾配を上った。崖の上の小学校の建物が黒く見えた。 「お話ししますわ」  久美子は決心したように言った。しかし、その決意は、彼女が添田に誘われて家を出たときからつけていたものだった。 「その方の来なかった理由は、わたくしに護衛の警部補さんがついていたからですわ」 「こちらから一しょに行った人ですね?」  添田は言った。 「そうなんです。南禅寺には来ないでいただきたい、と断わったんですけれど、その方が心配して、一しょに来られたのがいけなかったんです」  久美子は言った。 「先方は、その警部補さんの姿を、きっと、見たのだと思います。手紙にもありましたわ。指定の場所へはわたくしが独りで来るようにと、念を押してあったんです」 「そうですか」  添田は、久美子の暗い横顔を見つめるようにして歩いた。 「それで、南禅寺から苔寺へ廻ったわけですね?」 「諦めて、そっちへ行ったんです」 「苔寺はよかったでしょうね?」 「美しい景色でした」  しかし、その言い方には愉しげな口調はなかった。 「ああ、そこで、わたくし、一人のフランス人の婦人に遇いましたの」 「フランス婦人?」  添田は脚を停めそうになった。 「どういうことですか?」 「ええ、その場は、ただ、わたくしがその方のカメラのモデルになっただけです。でも、それがあとで妙な因縁になりましたわ」  久美子は、添田に何もかも話してしまうつもりになった。一人では、いつまでも胸の中で処理できないのである。  しかし、これは母には言えなかった。よく判らないが、母には何となく言えないような漠然とした障害を感じていた。  しかし、添田になら言える。ひとつは、添田に判断をつけてもらいたかった。 「その晩、わたくし、Mホテルに泊まりましたの」 「蹴上の。……あすこはいい」  添田も小高いところにある典雅な建物を眼に泛べたようだった。 「わたくし、もの好きだったんです。ひとつは、警部補さんには悪いけれど、自由になりたかったんです」 「その気持は、よくわかりますよ」  添田は微かに笑った。道は左に曲がっている。  空のうす明りのなかに、森を交えた広い畑が見渡せた。遠くの家に、砂粒のような灯が点いている。  添田は、久美子がいよいよ事件を話してくれると期待した。やはり自分の予想どおりだった。新聞記事で見たMホテルの現場に、久美子は居合わせたのだ。  しかし、そのことは自分から言わなかった。結論は久美子の話を先に聞いてからである。 「その晩、わたくし、そのフランス婦人から、食事の招待を受けましたわ」  久美子は詳しく話した。添田は耳を傾けて歩いていた。  あとは一気だった。ホテルのピストル狙撃事件をありのままにうちあけた。  添田は、その事件のあらましを新聞記事で知っていたが、事実、現場に居合わせた久美子の話は、記事などよりもずっと生々しい実感があった。 「それは新聞にも出ていましたから、ざっと読みましたよ」  添田は初めて言った。 「あら、お読みになってらしたの?」  久美子は、ちょっと愕《おどろ》いたようだった。 「偶然だったのですが、その記事が眼に触れたのです」  それは嘘だった。久美子が京都に行ったので、わざわざ、大阪の本社から出ている京都版を調べたのだ。実際に事件を発見したのは本紙であったが。  そのうえ、大阪本社の社会部に電話もしている。だが、それは久美子には白状できなかった。 「新聞記事によると、狙撃された人は、吉岡という名前でしたよ」  添田は、そう言って横を見た。恰度、道が明るい外灯の近くになっていたので、彼女の様子がよく判った。それまで前方をまっすぐ見ていた久美子の眼が、急に低い眼差《まなざ》しになったのである。 「お名前は存じませんわ」  久美子は低く答えた。が、その返辞は弱かった。 「あなたは、その吉岡という人を見たことがありますか?」 「あの騒ぎのなかですもの、とても見る勇気はありませんでしたわ。でも、その前に玄関でうしろ姿を見かけたことがあります。恰度、ホテルに着かれたときらしく、うしろ姿がエレベーターのほうへ歩いてるのを見ました」 「ちょっと待って下さい。それは何時ごろですか?」 「夜の十時過ぎだったと思いますわ」  添田は素早く頭の中で計算した。村尾芳生が羽田から日航機に乗ったのは六時ごろだったから、京都に入るのは、恰度、その時刻になる勘定だ。  添田は、自分の想像がそのことで具体的に合致したと思った。 「久美子さん。あなたは、その人のうしろ姿に見憶えはなかったですか?」  久美子は黙った。すぐに否定はしなかった。これが添田に自信をもたせた。 「その人は、外務省の村尾さんに似てませんでしたか?」  添田はわざと脚を緩めなかった。それは久美子の気持を軽くし、返辞を素直に引き出したいためだった。  久美子はしばらく沈黙していた。向うから二人づれの男が歩いて来た。一人は口笛を吹いている。久美子の返辞があったのは、その通行人が通り過ぎてからだった。 「申します。あなたのおっしゃるように、その人は村尾さんによく似ていました」 「やっぱりそうですか」  間違いなかった。村尾芳生はMホテルで偽名を使っていた。ピストルで射たれて負傷してからも、警察でも、病院でも、その偽名で押し通している。  なぜだろう。 「知ってる方は、もう一人いらっしゃいましたわ」  久美子は決然と告げた。 「えっ、同じホテルにですか?」  添田は、今度こそ正直に脚を停めた。 「そうなんです。わたくしの隣の部屋でしたわ」 「誰です?」 「滝良精さんですわ。わたくしに画家の笹島先生のところに行くように奨《すす》めて下すった方です」 「滝氏が?」  添田は唖然《あぜん》となった。あまりに自分の想像が的中しすぎている。  添田は、久美子と逢う前に、Mホテルに村尾芳生と滝良精とを並べて考えたが、久美子は実際にそれを目撃しているのだ。しかも、久美子の隣の部屋に滝氏は泊まっていたという。 「あなたは、滝さんとは何も話しませんでしたか?」 「いいえ、はじめて滝さんだと気づいたのは、あの真夜中のピストル騒ぎがあったとき、泊り客がおどろいて多勢廊下に出たのです。その中に滝さんの顔がありました」 「そうですか。で、滝さんのほうでは、あなたということを気づきましたか?」 「それはなかったと思います。わたくしも、そこで滝さんと顔を合わすのは、ご先方に都合が悪いような気がしましたから」 「すると村尾さんの泊まっていたのは、あなたの泊まっていらした階《フロア》と同じですね?」 「いいえ、村尾さんは一階上でした。わたくしと滝さんとが三階で、村尾さんは四階の角から二番目でした。角の部屋が、わたくしを食事に誘って下すったフランス人夫婦です」 「なんですって?」  道は森の茂った下を通って、また垣根のつづいた町なみの中に入った。遠くに車のヘッドライトが幾つもつづいている。 「そのフランス人は、夫婦者でしたか?」  添田の声は高かった。 「そうなんですの」 「だって、あなたはさっき、苔寺で出遇ったのはフランス婦人だとおっしゃったでしょう?」 「あのときはそうでした。日本人の通訳の人と二人だったのです。でもその方は、あとで、わたくしがMホテルに泊まっているのを知って、食事に招待したいからと、わざわざ、通訳の人を誘いに寄こしましたわ」 「苔寺で、主人のほうはいなかったんですね?」 「そうです」 「そのフランス婦人は、幾つぐらいの方でしたか?」 「外国の方は、年齢《とし》がよく判りませんわ。でも、もう、五十近い方じゃないかと思います。金髪の、そりゃあきれいな方」 「すると、あなたは、その旦那さまというのは見たことはないんですね?」 「いいえ、あります」 「なに、ある?」  添田はまたびっくりした声を出した。 「何処で?」 「南禅寺でしたわ」 「うむ」  添田は唸《うな》った。 「南禅寺のどこで遇いました?」 「寺の庭でしたわ。そこは、方丈を入って中庭を拝観するようになっています。白い砂地に渚《なぎさ》の波のような帚目《ほうきめ》が入っていて、石組みが島のように見えるんです。竜安寺の庭に蒼い樹をあしらったと言ったら、その感じが出るかもしれません。恰度、そのとき、外人の観光客の一行が入っていて、その中に、そのご夫婦がいらしたんです」  久美子はつづけた。 「もちろん、それはわたくしが苔寺に廻る前でしたから、そのフランス婦人の方とは、まだ知り合っていませんでした。でも、そのご夫婦は、日本人のように方丈の縁側に腰を下ろして、飽かずにゆっくりと庭を眺めていらしたんです」 「その主人というのは、どういうフランス人ですか?」 「そうですね、フランス人というよりも、何か、スペイン系か、イタリー系の人のように思いました。というのは、髪こそ真っ白いのですが、皮膚の色も、眼の色も、東洋人みたいなんです」  今度は添田が黙る番だった。 「そのご夫婦は、あなたを見ませんでしたか?」  添田は抑えた低い声で言った。 「あのときは、偶然に、日本人といったらわたくしだけでしたわ。そんな意味で、そのご夫婦の方だけでなく、一行の外人の方にじろじろと見られましたわ」 「で、そのフランス人……つまり、あとで、あなたがホテルで食事に誘われたフランス人夫婦は、特別にあなたに関心を見せませんでしたか? 例えば、ものを言いかけて来るとか、熱心にあなたのほうを見ているとか……」 「いいえ、そんなふうには見えませんでした。もちろん、言葉をかけられたのも、苔寺のときが初めてなんです」 「もう一度お訊きします」  添田は言った。 「あなたが南禅寺の山門のところで、手紙のあるじを待って立っていらした間、その外人一行は近くにいませんでしたか?」 「そうですね?」  久美子は考えていたが、 「そう、わたくしが立っていたとき、その観光客を乗せたハイヤーが、下から上がって来ましたわ。それはわたくしの傍を過ぎて、方丈の前に停まったんです。そうでした、車を降りた人たちが、南禅寺の名物になっているあの山門のところへ来て、ガイドの説明を聞きながら、高い屋根を見上げたり、カメラで写真を撮ったりしていましたわ」 「もちろん、そのフランス人夫婦も、その中にいたんですね?」 「いらしたと思いますわ。でも、それは気が付きませんでした。わたくしは手紙の方を待って、ずっと境内の入口ばかりを気を付けていましたから」 「そうですか」  添田はまた黙った。  二人だけのゆっくりした歩調が道の上をたどって行く。道は、外灯のあるところだけが円く明るく、そうでないところは遠くの光を淡く受けていた。  かすかに朽ちた葉の匂いが漂って来る。 「あなたは、ホテルで、そのフランス人夫婦の招待をお断わりになったわけですね?」  添田はまた訊いた。 「お断わりしました。なんだか、はじめての方では気詰りだったし、その晩は、京都名物の“いもぼう”をいただきたかったんです」 「そりゃ、落胆なさったでしょう」  と添田は思わず言った。 「いや、その、あなたを招《よ》んだフランス人夫婦のことですよ」 「でも、ちょっとしたことで甘えたくなかったんです。モデルといっても、苔寺の庭を背景にちょっと立っただけなんですもの」 「その写真は、きっと、そのご夫婦のいい記念になったでしょう」  添田は歩きながら、自分の言葉の反応を久美子の顔に見出そうとした。しかし、暗いなかだったが、久美子の呼吸は今までと変わりはなかった。 「そのフランス人夫婦の名前を聞いていますか?」 「いいえ、お名前は伺っていません。ただ、通訳の方が、フランスの婦人だということだけを教えたのです。なんでも、日本には観光にいらしたんだそうです。ご主人は、貿易のほうの仕事をしてらっしゃるとか言っていました」 「惜しかったですね」  添田は心から言った。 「あなたがその晩餐《ばんさん》の席に招待されたら、また別な経験になったでしょう」  この別な経験というのに、添田は力を入れた。 「そうでしょうかしら? わたくしは、そうは思いませんわ」 「どうしてですか?」 「ただの旅の往きずりにお遇いした方ですもの」 「旅の往きずりでも、人生に大きな転機となることもあります」 「添田さんは、わりと運命論者ですのね……」 「ときには、それを信じたくなることもあります」 「運命は、わたくしよりもあちらさまのほうでしたわ。だって、その晩の夜中に、あのピストル騒ぎが起こったんですもの。恰度それがフランス人夫婦の方のお隣でしたわ」 「念のために伺います。射たれた人の部屋は、何号室ですか?」 「405号室でしたわ。四階ですから」 「では、フランス人夫婦のひとは、404号室か、406号室ですね?」 「406号室ですわ」 「その騒ぎがあったとき、そのフランス人はどうしたでしょう?」 「その朝出発したのを、わたくしが見ました。きっと、びっくりしたことでしょうね。すぐ隣で、その騒ぎがあったんですもの」 「隣でね」  添田は言った。 「そりゃ愕くのも無理はありません。で、ホテルを引き揚げて、どこへ移ったのか判りませんか?」 「いいえ、聞きません。わたくしに関係ないことですわ」 「そりゃそうです」  添田はうなずいた。 「あなたには関係ないことだ」  道は久美子の家の方角へ戻りかけていた。 「それで、滝さんのほうはどうです?」 「滝さんは、朝早く、ご出発でした」 「そうですか。滝さんもね」  添田が考えるように空を見上げた。星がうすく出ていた。 「そのほか、その晩、あなた自身に何か変わったことは起こりませんでしたか?」 「起こりようがありませんわ」  久美子はそう答えたあと、気づいたように付け加えた。 「そう、そうおっしゃれば、わたくしの部屋に、何度も間違えた電話がかかって来ましたわ」 「間違えた電話?」 「部屋を間違えてるんです。交換台からじゃありません。ホテルの中のお客さまが、よその部屋にかけたんです。男の声でしたわ」 「何か言ってましたか?」  添田の声は少しふるえを帯びていた。 「いいえ、わたくしが、違います、と答えたら、失礼いたしました、と言って、それきり切れましたわ」 「それが一度だけではなかったんですね?」 「ええ。三度、そういうことがありました。ただ、ベルだけが鳴って、受話器をとると、もしもし、と言うだけで切れたこともありました」 「先方は、久美子さんの声が聞きたかったのかもしれませんね」  しかし、この添田の言葉は、深い意味には久美子に取れなかった。  久美子の家が近くなった。  電車から降りた人たちであろう。五、六人が一団となって、黙々と道を足早に歩いていた。 「添田さん」  久美子は言った。 「わたくしにはさっぱりわけが判りませんわ」  この言葉は、添田の耳に不安そうに聞こえた。何か自分を中心に見えない渦が巻いている。渦の実体は分からない、そういった不可解な危惧《きぐ》が彼女の言葉の響きに出ていた。  添田は、よほど自分の推察を彼女にうち明けようかと思った。しかし、それはあまりに重大すぎた。迂闊《うかつ》なことは言えないのである。久美子もだったが、彼女の母の孝子への影響もあった。何気ない一言でも、母娘《おやこ》には大地が崩れそうな衝撃にちがいなかった。 「添田さんは、どういうふうに判断なさるかしら」  花柏《さわら》の生け垣が両側につづいた細い路に戻った。 「いろいろのことがありましたわ。滝さんから頼まれて、笹島先生の絵のモデルになったときから、わたくしの周囲に、自分でもわけの判らない渦が巻いているような気がするんです。笹島先生は、突然、亡くなられるし、京都に行けば、村尾さんがピストルで射たれました。同じ宿に滝さんが見えている。みんな見えない糸で張りめぐらされているような気がするんです。わたくし、あの手紙に誘われて京都になど行かねばよかったと、後悔していますわ」  久美子のショックは、添田に判りすぎるくらい判った。実体がないだけにこの不安は大きい。 「判断はぼくにもつきません」  添田はやはりゆっくりと歩きながら答えた。 「しかし、あなたがそう気にすることはないと思いますよ。偶然にいろいろなことが起こった、というだけでしょう」 「いいえ、偶然が幾つも重なれば、なんだか必然みたいなものを感じるんです」 「そりゃ思い過ごしでしょう」  添田は言った。 「そう気になさることはないと思います。人間、気にしたら際限《きり》がありませんからね。なんでもないことでも、妙に神経が尖《とが》ってきます。ノイローゼの人なんか、そうでしょう。普通の人間が、平気で見過ごしていることを、いちいち、気に病んでいるんですから」  添田はそう言いながら、久美子もそのノイローゼ気味になっているのではないかと思った。そういえば、いつも快活な彼女がしょんぼりとしているし、そのくせ、どこかに頑固なところももっている。元はそんな性質ではなかった。素直で明るいのである。 「夜なんか、よくおやすみになれますか?」 「ええ」  久美子は低く答えた。 「熟睡というほどではありませんが」 「少し、運動でもなすったらどうです? 頭をできるだけ空っぽにすることですよ。身体だけ使って、何も考えないで、ぼんやりとするんですね」 「………」 「音楽会とか、展覧会とか、できる限り、そんなものを聞いたり、見たりなさることです」  ここまで言って添田は、そうだと気が付いた。 「音楽会といえば」  と添田は、来日する世界的なバス歌手の名前を言った。 「日比谷《ひびや》公会堂でやることになっています。切符はぼくが手に入れますから、なんでしたら、お母さんと一しょにいらしたらどうです?」  久美子は初めて少し明るい声で、 「有難う」  と言った。 「ぼくも、その晩に身体が空いていたら、お供しますよ」 「そう。うれしいわ」  やはり若い女性だった。久美子は、これまで、音楽会にはよく出かけていたが、ここしばらく、そのほうの足が停まっている。 「何も心配することはありません」  添田は勇気づけた。 「ただ、久美子さんの頭が疲れているんです。しばらく、ぼんやりすることですね。何も考えないことです」  久美子の家の玄関の灯が見えてきた。 「では、ぼくはここで失礼します」 「あら」  久美子が添田の正面に対《むか》い合って停まった。 「お寄りになったら? 母もお待ちしてますわ」 「もう、おそいですから、失礼します。お母さまにもよろしく言って下さい」 「だって、すぐそこなんですもの」 「ご挨拶して来たらいいんですが、今夜は、このまま失敬します」  添田は久美子の手を握った。 「元気を出して下さい」  久美子の顔が添田のすぐ前にあった。眼を大きく開き、対手の瞳を覗きこむようにしている。仄暗《ほのぐら》い路の上だったが、彼女の片側の頬に、淡い光が一筋の線をにじむように描いていた。 「ご心配かけました」  久美子が言った。その息が添田の顔に軽く触れた。彼女の指が握りしめた添田の手を包むように押えた。 「さようなら」  添田は手を放した。 「そのまま歩いてお家の中に入って下さい、ぼくはここに立ってお見送りしていますよ」  添田は両手をポケットに入れた。 「おやすみなさい」  彼女は彼にぴょこんと頭を下げると、背中を返した。  その黒いうしろ姿を、添田は番卒のように立って見送っている。久美子の姿が一つだけ、その路の向うに小さくなって行った。両方の家の奥には木立もある。家と樹に両方から挟まれた路を歩いて行く久美子の姿が、ひどく孤独にみえた。  久美子は家の前に着くまで、たしかに二、三度は振り返った。添田がそこに立っているのを確かめているというよりも、そのつど、さようなら、と言っているようだった。  添田彰一は大阪の本社の友だちに電話をした。京都のMホテルに、十一月二日の朝まで泊まっていたフランス人夫婦の名前を調べてもらうように頼んだ。  直接、Mホテルに電話してもよかったが、ホテルは宿泊人の名を容易に第三者には明かさない。やはり、なじみの記者でないと本当のことは言わないであろう。添田が言ったのは、いつもMホテルに取材に行っている記者に依頼して、それを報らせてもらいたいということだった。  その返辞は夕方までにあった。  その客は、ヴァンネード夫妻というのだった。夫がロベール・ヴァンネードで、妻がエレーヌである。職業は貿易商となっている。夫のほうの年齢は五十五歳、妻は五十二歳だった。  ヴァンネード夫妻!  添田はこの名前を呪文《じゆもん》のように繰り返して呟いた。  だが、果して、それが本名かどうかである。偽名ということもあり得る。殊に、この夫妻の場合は、その線が濃厚だった。濃厚というのは、それだけの理由を添田が想像しているからだった。  しかし、先ず名前が判った以上、その名で探さねばならぬ。  ヴァンネード夫妻は京都を引き揚げている。多分、東京に戻ったかも知れない。あるいは、大阪かも知れぬ。  それとも、宮島《みやじま》や、別府《べつぷ》温泉などへの遊覧途上にあるのかもわからない。しかし、とにかく、思いついたところからやってみることだ。  添田は電話帳を繰って、外人の泊まりそうな一流ホテルの番号を書き抜いた。  彼は、新聞社から次々にホテルを呼び出した。 「ヴァンネードというお客さんが、あなたのほうに泊まっていませんか。フランス人ですがね?」  質問はこれだった。  どのホテルも返辞は決まっていた。 「そういうお方は、お見えになっていません」 「これまで、そういう名前のフランス人が、泊まったことはありませんか? また近い将来にヴァンネード夫妻の名前で、部屋のリザーヴはありませんか?」  これにもホテル側の返辞は、ない、というのだった。添田は、半分は予期したことだが、がっかりした。  ホテルの返辞には二つの意味がある。  一つは、当人がまるっきり別な名前で泊まっているということだ。つまり、東京では、ヴァンネード夫妻という名前を名乗っていないという想像である。  もう一つは、現在、その夫妻自身が東京に居ないということだ。  しかし、近い過去にその名前で投宿者がなかったとなると、偽名の線が強いようである。フランス人が日本に来て、東京のホテルに泊まらないわけがない。やはり偽名であろう。  しかし、外人客がホテルに投宿する場合、日本人みたいに偽名ができるだろうか。外人は宿泊人名簿に自分の名前を書くと同時に、必ずパスポートの番号を書き入れることになっている。  添田はこの手続きに疑問を持った。  彼はそういうことに詳しい知人に訊いてみた。 「そりゃ、できないことはないだろうね」  知人は頭を傾《かし》げて答えた。 「その外人に魂胆《こんたん》があって、別な名前を書く場合、パスポートの番号を変えるということもあり得る。何もホテルのフロントで事務員がパスポートを手にとって、客の書いた番号と一々照合するようなことはしないからね。当人がそのつもりだったら、どうにでもなるよ。殊に地方に行けば、そのことはもっと簡単に出来そうだ。何だね、一体?」  知人は添田が新聞記者だものだから、面白い事件が起こったのかと思って、興味深そうに訊き返した。  添田は答えを濁した。  やはり、偽名は不可能ではないというのだ。  ヴァンネード氏とエレーヌ夫人。──  しかし、添田は思いついて、日仏協会に関係深い知人に訊ねた。 「ヴァンネード夫妻だって?」  その知人も考えてくれた。 「ぼくの聞かない名前だな」 「日本に来るフランス人は、大抵、協会に連絡があるのだろう?」 「そりゃ、その場合が多い」  その友人は反問した。 「何をする人かね?」 「貿易商というのだ」 「仕事で来たのか?」 「いや、日本に観光にきたらしい。尤《もつと》も、フランス人といっても、亭主のほうはスペイン系かイタリー系らしい。年齢も五十五歳というのだがね。ちょうど日本人を見るようだというのだ」 「訊いてみてあげよう」  友人は約束してくれた。  ここで、添田は自分の論理をくみ立ててみた。しかし、一連の奇妙な出来事が、その論理とどう関連するかは未だ筋道が立っていなかった。  添田は、外務省の村尾課長宅と、滝良精氏宅に手を廻さねばならなかった。  滝良精氏は京都を引き揚げて、東京に帰っている筈だ。しかし、自宅に電話したとき、家人は主人の留守を告げた。行先も一切わからないというのだ。  村尾課長宅に電話しても、 「唯今、旅行中でございます」  と女中らしい女の声が答えた。 「行先はまだ連絡がございません。お帰りになるときもわかっていません」  念のために、夫人を出してくれ、というと、それも留守だというのだ。この電話は三回かけて、三回とも同じことを宣言された。  友人の返辞もあった。 「こっちにいるフランス人たちに訊いてみたがね。ヴァンネード夫妻というのは、誰も知らないそうだ。何だか、インチキな不良外人じゃないかね」  滝良精氏もどこかに行ったままだ。村尾芳生は、多分偽名で京都の病院にいるのであろう。  添田には、そのうち何かが起こりそうな予感がする。彼は今になって、以前に村尾課長が冷たく言い放った言葉を思い出した。 ≪そのことだったら、ウィンストン・チャーチルに訊くんだね≫  まさに冗談ではなかった!      19  自動車《くるま》は白い|埃道を《ほこりみち》走っていた。刈入れの済んだ田圃《たんぼ》がひろびろと展がっている。道の傍に澄んだ川があった。  車は博多《はかた》のハイヤーで、すでに二十キロ以上走っていた。  客は六十ばかりの、背の高い男だった。近ごろ珍しく、きちんと鳥打帽子を被っていた。  客は窓外の景色を眺めている。山の間に松林が見え、人家の屋根が団《かたま》って光ってきた。 「だんな、津屋崎《つやざき》はどちらで?」  運転手が背中から訊いた。 「もう、津屋崎かね?」  と訊き返したところをみると、ここは初めてのようだった。 「すぐ、そこが町の入口ですけん」 「寺だがね。福隆寺《ふくりゆうじ》というのだ。訊いてくれないか」  運転手はうしろ向きのままうなずいた。  道には樹の影が長く伸びていた。陽はかなり西に傾いている。 「だんなは東京からおいでなはったんですか?」 「うむ、まあ、そうだ」 「こちらは初めてのようですな?」 「初めてだ」  客はどの質問にも短く答えた。  車は田圃が切れて町並みの中に入った。両側に古い家並みがつづく。  運転手は米の配給所の前で車を停めると、窓から首を出して、家の中に声をかけた。 「ちょっと、福隆寺ちゅうのは、どっちに行きます?」  俵の米をあけていた男が手を止めて、道順を大きな声で教えた。  車は走りだす。かなり大きな町だった。 「君、線香と花を買いたいんだがね。そういう店があったら停めてくれ」  運転手は車を客の希望通りの店に着けた。  男は一つの店から蝋燭《ろうそく》と線香を買い、別な店から花をもとめた。洋服がぴったり身に合う。年寄だが、服装は垢抜けていた。  車は町の中から折れて、山の方角へ坂道を上った。家の切れたところが寺の石段だった。 「ここですばい」  運転手は降りてドアを開けた。  客は花を抱えて、運転手に待つように言ってから、高い石段を上った。両脇は松、杉の森だった。山門が石段の上に屋根を見せていた。  男はゆっくりと上に脚を運んだ。子供が二、三人駆け足で上から降りて来た。  男は上りきったところで、ひと休みするように立ち停まって振り返った。町の屋根が下に沈んで、海が前方にせり上がっていた。正面に大きな島がある。突堤に囲まれて発動機船が集まっていた。  男は山門に掲げられた「福隆寺」という額を確かめてから、門の中に入った。  男は本堂の脇から庫裡《くり》のほうへ歩いた。寺はかなり古く建物の朱塗りが剥《は》げていた。全体が黒い銹《さび》で仕上げられた感じだった。  枯れた落葉を掃除している若い僧を見つけて、男は声をかけ、住職に会いたいと申し込んだ。  待っている間、男は境内をそぞろ歩きしていた。高い銀杏《いちよう》の樹に葉はなく、梢だけが黄昏《たそがれ》の近い空に伸びていた。  住職は長い髯《ひげ》を胸まで垂らしていた。白い着物で訪問客の立っているところに歩いて来た。 「和尚《おしよう》さんですか?」  客は帽子を取った。白髪の多い髪をきれいに分けている。顔つきも落ち着いていたし、この男のもっている姿が最初から淋しいものを感じさせた。 「この寺に、寺島康正さんの墓があるはずですが……」 「はい、寺島さんのお墓ならここにございますやな」 「わたしは、生前の寺島さんにお近づきをねがっていた者です。今度、九州に参りましたので、思い立ってお墓参りに立ち寄りました。ご案内ねがえませんでしょうか」 「よかです」  住職は若い僧に命じて、水の入った手桶を持ってこさせた。 「そうですか。寺島さんのお知合いの方ですか」  住職は先に歩きながら、すぐうしろに従う男に言いかけた。 「そげなお方は、近ごろ、めったにお見かけしませんやな。寺島さんもなんぼか喜びんさるでっしょ」  寺の境内を仕切って枝折戸《しおりど》がある。墓地は低い竹垣で仕切られていた。  かなり広い墓地で、住職は墓の間の径《こみち》を進む。柿の木が一本、朱《あか》い葉を梢の先に付けて震わせていた。  海が墓の間から見えてきた。風が強いのは、この高い場所が玄界灘《げんかいなだ》と正面だからであろう。雲の間に陽が翳《かげ》り、海の上にうす陽《び》が洩れていた。沖に光の筋が立っている。 「これですやな」  住職が男を振り返った。  墓は石垣で造られた玉垣を廻《めぐ》らしていた。しかし、墓標は自然石で出来ている。男はその正面に立った。墓石の表には「亭光院蒼円真観居士《ていこういんそうえんしんかんこじ》」と読まれた。  男は短い石段を上って、花筒に持って来た花を差した。住職が水桶を傍に置くと、男は屈《かが》みこんで、蝋燭と線香に火を点《つ》けていた。  永い礼拝だった。用意してきたものか、手に黒い数珠《じゆず》を掛けている。  住職は男と並んで短い経を唱えた。並んだ二人の背中の上に風が通り過ぎた。男は、住職の経が終わっても、まだ跪拝《きはい》をつづけていた。うすい肩に、雲を出た陽が落ちた。  男はまだ頭を下げて眼を閉じていた。その真剣な姿が、住職をその場に永く立たせた。  男はようやく起ち上がると、桶から柄杓《ひしやく》に水を汲み、墓石の上にかけた。雫《しずく》が石を筋になって濡らした。  短い念仏がまた男の唇から洩れた。  遠くの汽笛の声を風が運んだ。  永い礼拝だった。こんなにも心を籠《こ》める人は、肉親のほかはめったにいないように思われた。住職の眼が訝《いぶか》しげに見えたのは、そのせいである。  男は改めて海のほうを見た。恰度、墓標と風景との関係を確かめるような眼つきだった。 「いい景色ですね」  男は痩せた顔に、少し晴れた表情を泛ばせた。 「寺島さんも、こういうところに眠っておられると、仕合せですね」  静かな言葉だった。まだ遠い眼つきで沖を見ている。沖には島が描いたように浮んでいる。  光の筋が島の突端で切れていた。 「左様、やっぱり生れ故郷ですもんな。人間、眠り場所は、やはり生まれたところにかぎりますやな」  和尚は言った。 「寺島さんはここのお生れだと知っていましたが、やはり町の中ですか?」  男は住職に訊く。 「ちかと町から外れてますばってん、今では、遺族の方が町で商売ばしとられます」 「ほう、ご遺族が?」 「元は、この辺の地主さんばってん、戦後の農地改革で土地が半分になり、とうとう、手放されて、雑貨屋ば営《いとな》んどらす。ご命日には、きまってこのお墓にお参りにござらっしゃるばい」 「奥さまは、まだお元気でしょうか?」 「はい」 「もう、六十二、三……?」 「いいえ、あなた、七十にならっしゃるとばい」 「ほう、もう、そんなに?」  男は愕いたように眼を海へ逸《そ》らした。 「ほかのご遺族もお元気ですか?」  男は訊いた。 「はい、みんな達者でおらす。息子さん夫婦がよか人ですけん、ご隠居さんも仕合せですばい」  老僧が答えると、男はかすかに太い息を吐いた。 「それは結構ですな、安心しました」  住職は墓参の客の顔を改めるように見た。 「あなたさまは、よほど、寺島さんとはお親しかった方ですな?」 「お世話になった者です」 「ほう。そいじゃ、寺島さんのご遺族ば、ここへ呼んであげまっしょうか?」  男は首を振った。 「結構です。わたしが帰りにお寄りしますから」 「そうですな。この寺の道ば表通りへ出て、博多の方角へ行きんさると、左側に寺島商店という雑貨屋さんがござすけん、すぐわかりますばい」 「ありがとう」 「けど、寺島さんも公使までならしゃって、これから先の出世が楽しみちゅうときにほんに気の毒かでしたなア」  僧は墓石を眺めて言った。 「終戦後すぐ死んなはったから、あいはやっぱり、日本の負け戦がこたえたとでしょうな?」 「そうかもしれません」  男は軽くうなずいた。 「なかなか優秀な外交官ちゅうて、評判ばとっとなはったそうですな。いえ、この土地の者《もん》も、郷土が出した人じゃけん、がっかりしましたやな。あげな立派な人は、もうここから出ませんばい」  住職を見返して、男は同感したように何度もうなずいた。 「戦争のさ中に、中立国公使というむつかしか立場で、えろう激しい苦労しなはったけん、お疲れもあったでしょうな?」 「そうだと思います」  男は住職と一緒に、足を寺のほうへ移した。靴の下で銀杏の落葉が鳴った。 「亡くなられてからは、東京から外務省のお方がときたまお見えでしたばってん、近ごろは遠方から見える方もなかです。あなたが久しぶりの方ですやな」 「そうですか」  老僧の遅い足に男も歩調を合わせていた。  枝折戸の外に出ると、本堂わきに出た。落葉が木の根にうず高くかたまっていた。  後ろが林になって陽を遮蔽《しやへい》しているので、ここまで来ると、急に暗く感じられた。 「どうぞ、あちらへ。お茶でも差し上げたかです」  僧はすすめたが、男はこれをおだやかに断わった。 「有難いんですが、少し先を急ぎますので、ここで失礼させていただきます」  男はポケットから包みを出した。 「失礼ですが、寺島さんの菩提《ぼだい》料の一端にさせて頂きたいと思います」 「おお、そうですか。それは、それは」  住職は紙包みを押し戴いて、その上に書かれた文字を読んだ。  田中孝一と墨で書かれてある。 「田中さまとおっしゃいますな?」 「はあ」 「早速、遺族の方に、こればお見せしまっしょ」 「いえ、どうか黙っていて下さい。たとえ、お見せになっても、わたしの名前はご存じないと思いますから。ただ、生前の寺島さんとわたしだけの交際でした」  老僧は、また紙包みの文字に眼を落とした。これは丁寧に眺めたものである。 「なかなか、ご立派な文字ですな」  僧はしばらくして顔を上げた。 「失礼ばってん、この字は、|米※[#「くさかんむり/市」、unicode82be]《べいふつ》の書流と見ましたが」 「いや、そんな……」 「いえ、わたしも、書道ばやってましてな。この辺の人に教えとります。そこで、書のことは多少わかりますが、いや、なかなかご立派な手蹟ですばい。近ごろ、こういうものに出会わんので、ほんに嬉しかです」  住職は墓参客を石段の上まで見送った。その長身の姿の下で車が小さく動き出した。  男は座席から運転手に言った。 「その通りを右に折れると、雑貨屋があるそうだ。寺島商店というんだがね。そこの前で徐行してくれたまえ」  車は指図通りに走った。  大通りに出ると、両方が商店の軒になっている。津屋崎は旧《ふる》い港で、ここに並んでいる家もどっしりした構えの家が多い。赤い陽をうけた土蔵造りもあった。  男は前方から流れてくる家に注目していた。 「君、そこだ」  運転手にも「寺島商店」の看板が眼に入ったらしい。徐行を始めた。  同じ店が煙草も売っていると知ったとき、客は急に停車を命じた。 「煙草を買って来る」 「だんな、わたしが買いましょう」 「いや、いいんだ」  自分でドアを開けた。  店は地方にありがちな間口の広いものだった。一方では雑貨を商い、店の一部を煙草の売場にしている。奥が暗い。煙草の並んだガラスケースの向うに、十七、八くらいの少女が坐って編物をしていた。客の影がさしたので、その少女は白い顔を上げた。 「ピースを三つ下さい」  少女はケースの中に手を動かした。客は前に立ったまま、その動作を見ている。眼は熱心に少女の顔に向いていた。 「有難うございます」  少女は軽いおじぎをしてピース三つをケースの上に出した。 「マッチありますか?」 「はい、ございます」  客は早速、函《はこ》を破って一本を口に咥《くわ》え、少女が渡したマッチを手に取った。すぐ立ち去るのではない。その備えつけのマッチを置いても、青い烟を吐いて佇《たたず》んでいた。 「あなたは、この家のお嬢さんですか?」  躊《ためら》っていた客が思い切ったように訊いた。 「はい」  びっくりした顔だった。細面《ほそおもて》が可愛い感じなのである。 「おいくつですか。いや、これは失礼。つい、わたしの知っている人に似ているものですから」  少女は羞《はず》かしそうに微笑した。  少女の後ろは商品棚になっている。奥は暗くて先がわからない。西陽《にしび》が店先に当たって、そこだけ光が溜まったように明るい。 「ご機嫌よう」  少女には不思議な客だった。車に戻る姿を少女は一心に見ていた。  車のうしろ窓から客は寺島商店を振り返っていた。それが次第に遠くなり、町の家並みも切れた。  客は何となく安堵《あんど》したような表情になっていた。  しかし、妙に黙っている客だった。博多のホテルから乗せた人だったが、かなり長い道中なのに、運転手のほうからものを言わねば、言葉を吐かなかった。話の嫌いな客らしい。  その客が小さな駅を過ぎるときに、急に言い出した。 「君、夕刊を買ってきてくれないか」  新聞は福岡《ふくおか》で発行されるものだった。客は車の動揺に身をまかせて読み耽《ふけ》っている。外は夕陽の当たった山が赤い襞《ひだ》を描き分けていた。田圃にはもう光はない。  客は新聞を読むため眼鏡を掛けていたが、ある一部に眼を止めると、急に新聞を持ち変えてのぞきこんだ。  記事は短い。 「目下、九州大学で開催中の医学会は、東京、京都をはじめ全国各地からの学者が参集し、連日熱心な学術討論をつづけているが、本日の講演者と演題は次の通りであった。  前癌《ぜんがん》状態と胃潰瘍《いかいよう》について K大学 倉富《くらとみ》吉夫《よしお》博士  白血病の病理組織学的観察 T大学 芦村亮一博士」  客は眼を離して窓外を眺めたが、それはこれまでになかった動揺した顔だった。その後も同じ記事を三度も読み返していた。  芦村亮一は、電話の言づけを宿で聞いた。  今日の会が終わって、親睦会のためにレストランに行ってきた。電話がかかったのは、その留守である。  宿の女中は、交換台が聞いたメモを持っていた。 [#ここから1字下げ]  明日午前十一時に、東公園の亀山《かめやま》上皇銅像前でお待ちしています。もし、ご多忙でご都合悪い場合は、お目にかかれぬものと諦めます。小生は十一時半までお待ちしているつもりです。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]山 口    交換台で取った文字だった。  芦村亮一が知っている山口という姓は多い。しかし、このような妙な指示をしてくる男は一人もなかった。心当たりがないのだ。  彼は部屋から交換台に電話をした。 「たしかに、ぼくにと言いましたか?」 「はい、こちらで二度も念を押しましたから、それは間違いございません」  交換台ではそう答えた。 「ただ、山口、と言っただけでしたか?」 「それで分かるんだ、とおっしゃいました」 「おかしいな」 「ご存じでない方でございますか?」 「どうも、心当たりがない」 「申し訳ございません。ご先方の方がそうおっしゃいましたので、つい」 「いや、かまいません。で、むろん、男の人でしょうね」 「さようでございます。なんだか、年輩の方のように思いましたが」 「もう一度、電話をかけて来るということは、言わなかったでしょうね?」 「べつにおっしゃいませんでした」  芦村亮一は電話を切った。  彼は長いこと、そこで煙草を吸っていた。部屋は電車通りに面している。電車の音と、車の走る音とを聞きながら凝然《ぎようぜん》としていた。  彼は三十分ぐらい考え込んで、交換台を呼んだ。 「東京を願います」  電話番号は自宅のものだった。  局の交換手は、そのままお待ち下さい、と告げた。  向うの声が出るまで、芦村亮一は姿勢を崩さなかった。眼も天井の一角を見たままだ。  お話しください、という交換手の声につづいて、妻が出た。 「節子か?」 「あら、あなたですの。いかがですか?」 「うむ、順調に行っている」 「あと二日ですわね」 「二日だ」 「ご苦労さま。予定通りにお帰りになれます?」 「帰る」 「変だわ。何かご用事ですの?」  節子は、亮一の声の調子に気づいたようだった。 「いや、なんでもない。ぼくの留守に変わったことはなかったかね?」 「いいえ、何もございませんわ」 「そうか」 「何ですの?」 「ただ、家の様子を聞きたかっただけだ」 「変ね。今まで、めったに旅先からそんなお電話を頂戴したことないわ」  芦村亮一はためらっていた。電話をかけたときは、そのことを言うつもりだったが、言葉が出なかった。 「もしもし」  亮一が黙っているので、節子が催促した。 「何だ? 聞いている」 「急に黙っておしまいになって」 「いや、福岡は初めてだ。来てみると、なかなかいいところだよ。君はまだこちらを知らないだろう?」 「存じませんわ。九州はまだなんですの」 「この次、機会があったら、つれて来てあげよう」 「そう。うれしいわ。この前は京都の学会で、奈良を見せて頂きましたわ。……そんなお電話、わざわざかけて下すったの?」  節子の声がはしゃいでいた。 「久美子は九州に来たことがあるかな?」  亮一は何気ないように訊いた。 「さあ、久美ちゃんはどうかしら。学校か何かで行ってるんじゃありません?」 「そうかな?」  また言葉が跡切《とぎ》れた。 「孝子叔母さんは、どうだろう?」  ぽつりと言った。 「さあ、聞いたことがありませんわ。あら、おかしな方。みんな九州に伴《つ》れてって下さるおつもり?」  節子が笑い声を立てた。 「きっと、みんな大喜びしますわ。今度、久美子でも来たら、話してやります」 「いいよ。止せよ」  亮一はあわてて止めた。 「黙っておくんだ。いや、ぼくはただ思いつきで言っただけだからな」 「そうでしょう、急におっしゃるんですもの」 「帰ってから、ゆっくり話す」 「あなた、そちらで変わったことでもありましたの?」 「そうじゃない。何もありゃしないよ。じゃ、これで切るよ」 「そうですか。あと二日、頑張って下さい。ご苦労さま」 「早くやすめよ」 「ええ。でも、思いがけないときにあなたのお声を聞いて、うれしかったわ。今夜は、きっと、よく睡れると思います。おやすみなさい」  亮一は電話を切った。切ってからもまだ晴れない顔だった。遂に何も言えなかったことが、彼の眼を茫乎《ぼうこ》とさせていた。  十一時きっかり芦村亮一は車で東公園の入口に着いた。  広い公園は芝生の黄色が主調になっていた。並木も裸の梢ばかりが多い。  亮一は小高く作られた台地の上に立っている銅像を目標に歩いた。弱い冬陽を含んだ雲を背景に亀山上皇が束帯《そくたい》姿を黒く見せていた。銅像を中心に台地の周囲は、つつじで埋められていた。季節になると見事なものだと、宿では教えた。東公園に行くと言ったので、見物に出かけると思ったらしい。  学会は今日もあったが、亮一は同僚に頼んで休むことにした。この機会をのがしたら取り返しのつかないことになるような気がした。  足もとに風が舞っている。昨日よりも寒い日だった。亮一は銅像に行く小径へ曲がった。  歩いている人はいたが、家族伴れやアベックが多かった。子供が黄色く枯れた芝生の上を走っている。樹の間に茶店の赤い屋根が見えた。  亮一は眼で探したが、それらしい人物は見当たらなかった。上皇は寒空に毅然《きぜん》と笏《しやく》を構えていた。  亮一は丘についている石段を上った。銅像に届くまで平らの場所がある。彼はそこに佇んだ。かなり高いので、公園一帯が見下ろせる。遠い松林の向うに日蓮《にちれん》の銅像が袂をひるがえして立っていた。  ベンチに坐って煙草を出した。眼は絶えず下の方にそそがれている。新しい人が公園に入ってくるたびに視線が緊張した。  公園の傍を走っている電車の音が聞こえる以外、静かな領域である。広いので、歩いている人の姿が小さかった。  雲が芝生の上に、斑《まだら》の影を移動させていた。  このとき、うしろで軽い靴音がした。靴音は亮一の横に廻った。  その人は、近ごろ珍しい鳥打帽をきちんと被りオーバーの衿《えり》を立てていた。背が高かった。  彼はベンチの端に立っていた。亮一とはかなり距離を置いている。それも亮一を見るのではなく、公園を眺め下ろしていた。  亮一はその人の横顔をじっと見た。まだ気持の中に疑いが残っていた。すぐ声をかけなかったのも、まだ半分は信じられなかったからだ。  何か呟きがその人の口から洩れた。最初の声は風が消した。真直ぐに公園を見下ろしたままで、まるで、歩哨のような端正な姿勢だった。  芦村亮一がバネのようにベンチから起《た》ったのは、二度目の声をはっきり耳に捕えたときだった。 「亮《りよう》さん」  その人はそのままの恰好で名前を呼んだ。雲が彼の横顔を翳《かげ》らせた。もっとも、帽子とオーバーの衿とで半分しか見えない顔だった。  亮一はその人の横に急いで歩き、一尺とは離れないところに立った。横顔を見つめたままである。 「やっぱり……」  亮一は喘《あえ》いだ。  その人はまだ姿勢を変えなかった。視線もやはり公園に向いたままである。 「ぼくだ。……しばらくだったね」  声は嗄《か》れていた。しかし、亮一に確かに聞き憶えがあった。二十年近く耳にしなかった懐かしい声だった。 「亮さん、おめでとう。新聞で読んだ。博士になってるんだね。偉いな」 「叔父さん」  久しぶりに出る呼び名だった。声が震えた。 「叔父さん……」  あとの言葉が詰った。胴震《どうぶる》いがした。指先が痺《しび》れてくる。 「そこに掛けよう。お互い、世間話のような恰好をしているんだ。分かったかな。亮さん」  自分でハンカチを取り、ベンチの埃《ほこり》を亮一の分まで払ってくれた。  どっこいしょと、軽い掛声をかけて坐った。これは亮一の心を抑えるための動作だった。  煙草をゆっくりとオーバーから取り出し、ライターを点《つ》けた。その身振りを亮一は瞬きもせずに見ていた。はじめてわかったが、鳥打帽の下から白い髪がハミ出ていた。横顔は昔通りに彫りの深いものだった。  亮一は息ができなかった。  対手は悠々《ゆうゆう》としている。青い烟が雲の中に吐かれた。 「とうとう、出て来たよ。亡霊がね」  その眼は公園の冬景色を鑑賞していた。 「しかし……」  亮一は何を言っていいか分からなかった。そこにいる人にまだ実感が定着しない。 「ぼくだとすぐわかったかね? 宿のことづけだが」  歯切れのいい東京弁も変わってはいない。 「……そりゃ、分かりました。叔父さんだと気づきました」 「死んでるはずのぼくがね、亮さんにそう知れたのは、どういうことだろう?」 「前から、そんな予感がちらちらしていたんです」 「久美子は、気づいていないだろうね?」  久美子と言ったとき、声の調子が違っていた。 「気づいていません。ぼく以外には、あるいは節子が半信半疑でいるかもしれません」 「そうだった、節子は元気かね?」 「ええ……それに叔父さん、叔母さんも元気です」 「知っている」  この返辞は、かなり時をおいて出た。眼が下を向いた。 「ご存じだったんですか? 日本に来られてから、誰かにお聞きになったんですか?」 「見たのだ」 「え、どこで?」 「一度は、歌舞伎座だ。久美子もそのとき見た。大きくなったものだ」  孝子のことに触れなかった。 「外務省関係の事務所に勤めてるんだって?」 「そうなんです」 「夢のようだな。ぼくが日本を離れるときは、まだ幼稚園だった……小っちゃな鞄を肩に掛けてね。赤い兎《うさぎ》の絵のついたやつだ。防空|頭巾《ずきん》が鞄と一しょに下がっていた。モンペをはいてね。母親の孝子のお古を仕立てたやつさ」 「叔父さんが孝子叔母さんと久美子さんを歌舞伎座でご覧になったというのは、偶然ですか?」 「まあ偶然だったと言っておこう」  少し遅れて出た返辞だった。 「あんなに大きくなったとは、思わなかった」 「叔母さんはいかがでした?」 「うむ」  間をおいて、 「亮さん」 「………」 「それで君をここに呼び出したんだが。……そうだ、学会で忙しいんだろう?」 「いや、そんなこと、どっちでもいいんです」 「済まなかったな」  亮一は野上顕一郎の横顔をつくづくと見た。新聞で任地での死亡をはっきりと公表された人だ。亮一はまだ記事を憶えている。写真入りで履歴が付いていた。  その当人が、今、眼の前にいるのだ。 「亮さん、まだ、ふしぎそうに見ているね。この通り足はついているよ」  野上顕一郎は冗談めかして、靴で地面を蹴ってみせた。 「しかし、どうして……」 「ぼくの死亡が発表されたかと聞きたいんだね?」 「あれは、当時の政府の発表です。新聞社の特派員の電報ではありません」 「その通りだ。野上顕一郎はこの世に存在しない」  野上顕一郎は疲れたように背中をベンチに凭《もた》せた。自然とその姿勢が伸び、眼が雲を見る恰好になった。 「わたしという人物はここにいる。しかし、野上顕一郎はどこにもいないのだ。死んだことに間違いはない。日本政府のれっきとした公表だ」  芦村亮一のほうが顔を硬《こわ》ばらせていた。      20  高い場所に立つと空が広い。  灰色の雲が西の方角に流れていた。雲は鈍い光にふちどられている。  野上顕一郎はベンチに坐ったまま、身じろぎもしなかった。ハンティングの廂《ひさし》の下が暗くなっている。彫りの深い顔に皺が深まり、顎の下の咽喉に老いが見えていた。  芦村亮一は、生活の匂う身装《みなり》だけでなく、国籍も日本人ではなくなっている叔父を見つめていた。 「どういう事情か、ぼくには呑み込めません」  亮一は言った。 「御自分の意志で、日本の国籍を消されたのですか?」 「むろんだ」  と顕一郎は即座に答えた。 「自分のことを処置したのだ。誰からも強制されたのではない」 「しかし、それには理由があるはずです。ぼくらには、叔父さんが死亡によって日本人でなくなったという動機が掴めないんです」 「やむを得なかったのだ」  顕一郎ははっきり答えた。 「とおっしゃると?」 「亮さん、人間は環境によっては、途方もなく気持が変わるものらしい。元来、しっかりと持ってるようで、案外、意志という奴は環境に支配されるものだ……これは初歩の唯物論《ゆいぶつろん》みたいな言い方になったがね」 「その環境が問題なのです。叔父さんの意志をそこへ持って行ったという環境とは、何ですか?」 「戦争だ」  顕一郎は短く言った。 「それ以上には言えない」 「しかし、戦争が済んで、かなりの歳月が経っているのにまだその秘密が残っているのですか?」 「わたしのことに関してはね」 「しかし、チャーチルも、イーデンも、戦争中の回顧録を公開しています。今さら叔父さんだけが……」 「断わっておくが、わたしは、それほど大物ではない。眇《びよう》たる在外公館の書記官だった。大物ならあとで差し支えないことだけを告白できるが、小物はかえって何も言えない場合が多いのだ」 「では、叔父さんが日本人でなくなったのは、お国のためだったのですか?」 「もう、止そう。だんだん、白状しそうになるのでね。わたしのことは、それくらいで止めてくれたまえ。事実だけがここにある。亮さん、そう思ってわたしを見てくれないか」  野上顕一郎は松林の上に眼を移した。遠くに見える日蓮の黒い銅像の頭の部分が鈍い陽を受けている。 「こんな話をするために、忙しい君を呼んだのではなかった」 「わかりました」  芦村亮一は別な表情になった。 「では、そのことは、もう、お訊ねしないことにします」 「ああ、そうしておくれ」 「叔父さんは、これからどうなさるんですか?」 「日本に居ろ、というわけだね!」 「もちろん、それに越したことはありません」 「わたしも、事情が許せば、日本にいたいと思っている。やはり日本はいい。だから、こうして幽霊みたいにのこのことやって来たのだ」 「日本の風景だけを見物にですか?」 「………」 「孝子叔母さんには、お逢いにならないんですか?」 「ばかなことを言う」  顕一郎は淋しく笑った。 「あのひとはね、わたしという者が死んで、この世で独りになっている。お盆ではあるまいし、今ごろ亡霊が女房のところに顔を出すわけもないだろう」 「しかし、叔父さんは、ぼくだけには逢いに来られた」 「君だから逢ったのだ。これが女房や娘であってみろ。とても呼び寄せられた義理ではない」 「ですが、叔父さんは、久美子にはお逢いになっている」 「逢った」  と低い声で言った。 「君は前から知っていたのか」 「知っていました……叔父さんが、孝子叔母さんや久美子に逢われる前に、日本に来られたことも察していました」 「ほう」  愕きが顕一郎の口から洩れた。急に亮一を鋭い眼で見た。 「どうして知った?」 「節子です」 「節ちゃんが?」 「奈良の寺で、叔父さんの筆蹟を見て来たのです。唐招提寺に行ったとき、芳名帳で叔父さんの筆蹟を見ています」 「なるほど」  野上顕一郎は、しまったというように自分の指をはじいて、 「余計なことをしたものだ」  と言った。 「奈良に行ったとき、つい、どこかに分からないように自分の記念を遺したくなったのだが、つまらないことをした。ほれ、修学旅行の子供が、樹の幹や石にナイフで疵《きず》をつけるようなものさ……あれを節ちゃんが知ったのか?」 「特別な筆蹟だからすぐ判ったと言っていました」 「そうだ、こりゃ自業自得だね。節ちゃんには、若いときからわたしの偏窟《へんくつ》な文字をさんざん見せつけていたし、古い寺をまわるような年寄趣味を植えつけたのもわたしだった。そうか、あれで判ったというのか?」  弱ったという眼つきだった。 「いいえ、そのときは、まだ半信半疑でした。まさか、と誰でも思います。外務省から正式に発表された死亡人が、生きているとは思いませんからね」 「申し訳ない」 「節子はそれを久美子にしゃべったようです。それで、もう一度、そのことを確かめに行った人があります」 「誰だ? まさか孝子ではあるまい?」 「添田という新聞記者です」 「何?」  屹《きつ》とした眼になった。 「いいえ、新聞記者といっても、将来、久美子の夫になるかもしれない男です」  野上顕一郎は激動を抑えるようにポケットを探って煙草を取り出した。亮一にもすすめ、自分でライターで火をつけてやった。小指がかすかに震えていた。 「そうか。久美子にね」  青い烟が鈍い雲の下に拡がった。 「そりゃどういう男だ?」  と、今度は熱心な口調になった。 「ぼくも二、三回逢ったことがありますが、しっかりした青年です。久美子の配偶者としても間違いないと思います」 「君、見てくれたの?」 「ぼくよりも、節子のほうが気に入っています」  烟が顕一郎の唇からまた流れ出た。 「節ちゃんなら間違いはない。節ちゃんが感心しているのか」  野上顕一郎は、何度目かの視線で黒ずんだ松林の上を撫でた。帽子の廂の下に光っている眼が潤《うる》んでいるのを亮一は見た。  芦村亮一のほうが胸を詰らせた。二人はしばらく声を出さなかった。通りがかりの者が見ると、ベンチに腰を掛けた二人の男が、ぼんやりと公園で疲れを休めているように映った。 「久美子のことは」  野上顕一郎がしばらくして言った。 「君たち夫婦によろしく頼むよ」 「そりゃ、もう」  芦村亮一は眼の奥に熱を感じてきたので困った。 「出来るだけのことはします。孝子叔母さんも元気でいらっしゃることだし」  そう言って叔父を眺めたが、顕一郎の横顔はきびしくみえた。 「叔父さんは、孝子叔母さんをご覧になったとおっしゃいましたね?」 「実は、村尾君が計らってくれた」 「日本にお帰りになったのも、村尾さんの蔭の尽力ですか?」 「わたしが勝手に戻って来たのだ。村尾君のせいじゃないよ」 「そうですか。それはどちらでもいいです。ただ、お聞きしたいのは、叔母さんをご覧になって、どうお感じになったかです」  取りようによっては、残酷な質問だった。だが、芦村亮一は叔父がその焦点から絶えず逃げていることを知っていた。ここで正面から見究《みきわ》めねばならないような気持になっていた。 「……うむ。苦労をさせたと思っている」  遠くを見るような眼差しで、声も低かったが、亮一には大きな音響に聞こえた。 「やはり、年をとられたとお思いになりますか?」 「別れてから、十八年経っているからな。当たり前だ。わたしも頭が白くなった」  芦村亮一は感動が胸から噴き上げた。  しかし、そこには妻から逃げた男の利己主義が覗かれた。自分だけが隠れて、置き去りにした妻を覗いている眼のエゴだった。 「ぼくがそこに居合わせたら、叔父さんだと判り次第、無理にでも叔母さんのところへ引っ張って行くとこでした」 「おいおい、無茶を言っては困る」  顕一郎は虚《うつ》ろな笑い声をあげた。 「そんなことをしてみろ、大へんなことになる。わたしは本当に死ななければならなくなるよ」 「あとのことはどうにかなります。とにかく、叔父さんは叔母さんの前に出て頂けばいいんです。後の面倒なことは、みんなで処置します」 「有難う」  顕一郎は礼を言った。 「亮さんがそう言ってくれる気持はよく分かるがね。そう簡単にはいかないよ。それが出来たら、わたしは犯罪人のように人目を忍んで日本に帰りはしない。これは堂々と帰国する。それが出来ないのだ。何しろ昭和十九年に鬼籍に入った人物だ」 「そんなことは」  亮一は傍で躍起《やつき》となった。 「一向に平気です。戦死と公表された軍人が、ぞくぞくと生きて還っています」 「兵隊ならいい」  顕一郎は亮一の言葉を叩くように言った。 「戦場は一瞬にその人間の世界を遮断するからね。これは何があったって構わない。しかし、わたしの場合は違う。中立国にいて、万人がわたしの死を知っていたのだ。そう簡単には生還できないよ」 「しかし、現に、叔父さんは生きてここに還っていらっしゃる」 「議論にはならないね」  叔父は匙《さじ》を投げたように言った。 「そんな無茶を言うと、わたしは君と会ったのを後悔したくなる。亮さんなら男だし、わかってくれると思っていた」  芦村亮一は、はっ、となった。叔父の言う「男なら」の一語が胸を突いた。この言葉は同時に、自分だけがこの叔父から一番遠い存在だということの指摘にもなっていた。  孝子や久美子、節子は、みんなこの叔父とは血のつながりがあった。女だから取り乱す惧《おそ》れがあるというだけではなく、亮一なら冷静になれる、と叔父は判断していた。ただ性別の問題だけではなかった。 「亮さんなら、わかってくれるはずだ」  顕一郎は、亮一が黙っているので、つづけた。 「わたしは、本来なら、君の前にも姿を出すべきではなかったのだ。事実、今度、日本に帰って来るときも、そういう決心だった。不覚だが、日本の土地を踏んでみて、その決心がぐらついたと言えよう。どう説明したらいいか。つまりだな、わたしが生きているということを、自分の身内の誰かにそっと知らせておきたかったのさ……」  公園の下を人が歩いていた。顔がこちらを見上げている。だが、それは二人のほうを見ているのではなく、そのうしろに聳えている亀山上皇の銅像に眼を向けているのだった。 「そこが生きてる人間の煩悩《ぼんのう》だな。まだ悟り切っていないのだ。自分のことを誰かに知っておいてもらいたい。誰にも知られないのは、やはり淋しい……こういう煩悩さ。そこで、そういう人間を探すとしたら、やはり亮さんしかいなかったという次第さ」  顕一郎はつづけた。 「だから、むろん、わたしに逢ったことも、亮さんだけがその胸の中に収めておく。決して誰にもこのことを言わない。亮さんなら、わたしの頼みを諾《き》いてくれると思っていた」 「ぼくは」  と芦村亮一は肩で太い息をした。 「その自信がなさそうです」 「おや、じゃ、誰かにしゃべるというのかい?」 「自分の気持が承知しないと思うんです。自制が出来なくなるんじゃないかと思います」 「君なら大丈夫だ。君だって、わたしがそう頼まなくとも、わたしに会ったことは孝子にも言えないだろうし、久美子にも打ち明けられないだろう。節ちゃんにだってそうだ」 「………」 「わたしの我儘はわかっている」 「いいえ、叔父さんは、おそろしく自分に打ち克っている人です」 「そう見えるかね? それだったら、わたしは君にも逢わなかっただろう。そして、日本を去ってから、君に逢わなかったことを、ああ、いいことをした。やっぱりおれは強い、と思うに違いない。それが出来ない人間なのだ。わたしは日本から離れた瞬間に、君に逢ったことをきっと後悔する。そう思いながらも、こうしてのこのこと正体を見せたのだ」 「もう、これきり、ぼくには逢っていただけませんか?」 「一度きりで沢山だろう。二度も、三度も逢っていては、亡霊の神秘性がなくなる」 「それじゃ、あまり叔母さんや久美子が可哀そうです」 「常識的なことを言うね。亮さんがそんなことを言うとは思わなかった。君は医者だろう。科学者だ。感情だけでものを言ってはいけない。実は、わたしが感情家だから、君にだけはその冷静さを求めているのだ」 「しかし、叔父さん。節子もですが、本当は久美子も、叔父さんのことを感づいていますよ」  瞬間に、野上顕一郎の顔が怕《こわ》い表情になった。それまで、どこか楽なものの言い方だったのが、急に余裕をなくした。身体までも動かなくした。 「そうか」  唇だけがわずかに動いて、それから言葉が洩れるような言い方だった。 「そうじゃないかと感じていたがね」 「むろん、久美子は、ぼくらには何も言いません。しかし悧口《りこう》な子ですから、それは感じ取っていると思います」 「一体、それはいつからだ?」  急いで訊いた。 「久美子は笹島先生のモデルになって、画伯にデッサンをとられていました」  亮一は、自分を見つめている叔父の眼を受け止めて言った。 「その絵が、画伯の急死でわからなくなってしまったのです。ところが、その後、ある女名前で、そのデッサンを渡すから、京都の南禅寺まで取りに来てくれ、という手紙が来たのです。久美子は、その手紙の通りに指定された場所へ行きました。ところが、相手の女は現われず、むなしく東京に引き返して来ました……この辺から、久美子は、変だな、と思ったのです」 「うむ」  顕一郎は眼を元の松林に戻した。 「変だな、というのは、その妙な手紙のうしろに父親がいる、と想像したのかね?」 「はっきりとは判りませんが、お父さんの影を感じたのではないかと思います」 「久美子は、独りで京都へ来たのか?」 「いいえ、不安でしたから、ぼくの考えで、警視庁の警官に付いて行ってもらいました」 「やっぱりそうだったのか」 「やっぱりですって?」  亮一は愕然《がくぜん》となった。 「では、叔父さんがそうしたのですか?」  野上顕一郎は顔を俯向《うつむ》けた。はじめて、眉の間に深い皺が寄った。苦痛の色がありありと見えていた。 「手紙はわたしが出したのではない」  顕一郎は咽喉の奥から吐き出すように言った。 「わたしに引き合わせようとした人のしたことだ。しかし、責任はわたしにある」 「やはり村尾さんか、滝さんかですか?」 「名前を出すのは遠慮しよう」 「………」 「手紙は、久美子だけに来てもらいたい、と書いたそうだな。つまり、わたしという人間の持ってる秘密性に、その人の配慮があったわけだ。他人には洩れてはいけないことだからな。だから、そういう用心深い約束になったのだ。いや、約束とは言えないな。一方的な指定だ。ところが、久美子だけではなく、そのうしろに妙な男がちらちらしていた。君が親切に計らってくれた警察の人だ」 「ああ、それでいけなかったのですね?」 「わざわざ、東京から京都まで久美子を呼び寄せて、悪いことをしたと思っている」 「そりゃぼくの責任です」  亮一は遮《さえぎ》るように言った。 「ぼくが余計なおせっかいをしたからです」 「いや、亮さん、それでいいのだ。君が久美子のためにせっかいを焼いてくれるのを、わたしは有難いと思っている。先ほども、よろしく頼む、と言ったが、ここで改めて、亮さん、その気持にお願いしたい。君から聞くと、久美子は、どうやら仕合せな結婚をするらしい」 「………」 「不思議なものだな。新聞記者というのをあまり好きでないわたしが、その話をきいた今から、急にそうでもなくなったのだから、妙なものだ。まだ当人は見たこともないが、なんだか、顔つきまでぼんやりと想像できそうだ。そう聞くと、何となく、もう、父親の気持が湧いているから、おかしなものだな」 「日本には」  と亮一は言った。 「叔父さんを迎える人の手が一ぱい待っているんです。叔父さんに都合が悪かったら、この人たちは、どんな秘密でも守ります。叔父さんを表に出さないで、こっそりとどこかに隠しておくことも出来ます。死んだつもりの余生を、ひっそりとした生活にお過ごしになるつもりはありませんか? みんな、そのためには、どんな努力でもします」 「亮さん、たびたび言うけれど、そういう話は一切ないことにしよう。いつも、現在という時点からものを言ってもらいたい。逆戻りは出来ないのだ」  芦村亮一は叔父の顔を真直ぐに見た。 「日本には、あとどのくらい滞在なさるおつもりで?」 「長居は出来ない。わたしはただの観光客として来た。帰郷した人間ではない。すぐに日本を離れるのが当然だ」 「予定は?」 「そんなものは決めていない。だが、なるべく早いとこ離れたい」 「お独りで来てらっしゃいますか?」 「何?」  思いなしか、野上顕一郎の表情に狼狽があらわれた。 「何といったのだ?」 「日本にはお独りでみえているんですか、と訊いているんです」  最初の問いは野上顕一郎の耳に届いていた。訊き返したのは、返辞を考える時間をもつためだった。いや、返辞は用意してある。しかし、その返辞を思い切っていっていいかどうか、躊躇が湧いたのだった。 「独りだ」  思い切って言った。眉の間に苦渋《くじゆう》の色が浮かんだが、ハンティングの廂の影がそれを隠した。 「もちろん、独りさ」  と重ねていった。 「しかし」  と顕一郎はつづけた。 「日本を出て行っても、君には知らせないよ。ここで逢って、ここで別れるのが最後だ。今度は、ほんとにこっそりと出て行く……それに、わたしが日本にいては悪いことが起こる」 「悪いことですって?」  芦村亮一は聞き咎《とが》めた。 「どんなことです」 「具体的にはどういうことかはいえないね。何となく、そんな予感がするだけだ」 「叔父さん」  と亮一はきつい眼つきで眺めた。 「さっきお話しした笹島画伯ですが、久美子のデッサンを描いた人です。この人が、急に、原因不明の死に方をしています」 「………」 「それに、久美子が京都に行ってるとき、ホテルでピストル騒ぎが起こり、泊まっていた人が怪我をしたそうですね?」 「どちらもわたしの知らないことだ」  顕一郎は静かに答えた。 「笹島画伯というのは、わたしは遇ったこともない」 「しかし、滝さんが久美子をモデルに頼んだんです」 「滝は知っているが、日本に帰ってからの滝とは交際がない。つき合いは、彼がヨーロッパにいるときだけだった」 「久美子が京都に行ったのは、叔父さんを知っている誰かの計らいだ、と今おっしゃいました。その京都のホテルで、ピストル傷害事件が起こっています。射たれた人は、ぼくの知らない人です。新聞を取り寄せて読んでみたのですが、知らない人の名前でした。しかし、久美子が泊まった宿でそれが起こったというのが問題です。笹島さんの場合も、久美子に関連がある」 「迷惑な話だ。そりゃわたしの話してる意味とは違う。わたしは、ただ、自分が日本にいてはいろいろな人に迷惑がかかってくると考えただけだ。なにしろ、外務省で死んだといっているんだからね」  野上顕一郎は、雲のほうへ眼を向けながらつづけた。 「言い忘れたが、わたしが日本に帰って来た理由の一つは、寺島公使の墓に参りたかったからだ。実は、昨日、やっとその宿望が遂げられてね。博多の近くだ。海の見える高い所でね。きれいな墓だった。お線香を上げながら、しみじみと思ったよ。やはり本当に死んでいる人は誰にも迷惑をかけないとね」 「………」  芦村亮一は言葉が挿《はさ》めなかった。 「わたしは、寺島さんには随分とお世話になった。お墓参りをしただけでも、日本に帰って来た甲斐があったと思ったよ。それだけでいいんだ。どうも、わたしは日本に長く逗留《とうりゆう》しすぎたようだ」 「叔父さん」 「うむ、何だね?」 「寺島公使は、向うで病気になられ、日本に帰られてから病死をなさいました。きっと御家族や、親戚、友人にみとられながら息を引き取られたと思います」 「………」 「叔父さんの場合だってそうだと思います。新聞によると、スイスの病院で亡くなったと出ていました。入院していたとすれば、多勢の医者も看護婦も知っていたことになります。それがどうして死亡になったのか。いや、そのことを医者がどう納得したかです」  野上顕一郎は、また元の茫乎《ぼうこ》とした表情に戻っていた。 「それとも、叔父さんがスイスの病院に入ったということ自体が隠《かく》れ蓑《みの》だったのですか?」 「言えないな」  ぽつりと答えた。 「じゃ、もう一つ訊きます。当時、現地には、村尾さんも、そのほかの館員もいました。それに、スイスには、当時の特派員として滝良精さんがいました。ところが、村尾さんも、滝さんも、叔父さんの帰国を知っています。少なくとも、村尾さんは、叔父さんに叔母さんや久美子さんを見せているんですから、否定は出来ないはずです。滝さんにもそんな挙動が見えます。ほかの館員の人は知りませんが、少なくとも、この二人は、叔父さんの生存を前から知っていたのです。これはどういう理由《わけ》でしょう?」 「亮さん、その話は黙っていることにしよう。君はあまりに好奇心が強すぎる。なぜ、なぜって、まるで子供のように訊くんだからな」 「極めて単純で素朴な疑問です。しかし、重大な疑問です」 「止そう。わたしは君を呼んだのを後悔しはじめている。わたしが軽率だったのかな」 「誰にもいうな、とおっしゃるなら、その約束は守ります。しかし、ぼくを信頼されて、ここに呼んでくださった以上、ぼくの納得のいくようなお話を伺いたいものです。それは、叔父さんのぼくへ対する義務だと思うんですが」 「亡霊に義務はない」  野上顕一郎は平気でいい切った。亮一が唖然《あぜん》となったくらいである。 「元来、亡霊という奴は、勝手なものに出来上がっている。自分の好きなところに現われて、自由に引っ込むようになっているようだ。君をここに呼んだのも、わたしという亡霊の勝手だし、その理由を、いや、君のいう義務を果さないのも、そいつの特権だ」  野上顕一郎は、はじめてベンチから腰を上げた。 「いい景色だね。日本的な眺めだ。こういう場所で、いま、亮さんと逢って話しているのが嘘みたいだ。日本に来るときは、こういう場面を予想しなかったがね。しかし、それだけに、ぼくは向うに帰っても、この光の色と、亮さんの声とが、いつまでも、頭の中に鮮烈に生きているだろう」  亮一が叔父のうしろから起《た》った。 「叔父さん。叔父さんは、実はぼくではなく、久美子に逢って行きたいんでしょう?」  亮一はわざと叔父の顔を見なかった。外国の風の染み着いた洋服の背中を見たままで言った。  背中は黙っていた。 「久美子は、ぼくが伴《つ》れて行きます。叔父さんが隠れ蓑を着けたままにしたいとおっしゃれば、そのつもりでそっと伴れて行きます。当人は何も気づかないようにもします」 「………」 「それだけはぼくにさしてくれませんか。秘密は絶対に守ります。叔父さんの気持を聞いてからは、叔母さんにも、節子にも、何もいえたものではありません。おそらく、生きている叔父さんと出遇ったということは、ぼくが墓場の中に背負って行くだけだと思います」  亮一は懸命につづけた。 「ですから、その連絡の方法をぼくに指示して下さい。どんなことでも、それに従います。叔父さんは久美子に、歌舞伎座でちょっとお逢いになっただけでしょう。いや、それは逢ったとはいえない。ちらりと見ただけです。それから、叔父さんの手許には、笹島画伯が描いた久美子の顔があるはずです。しかし、叔父さんはまだ久美子と話をしていない。本当に逢ったとはいえないのです。叔父さんが話をし、久美子がナマの声で叔父さんに答える。そういう会話なしには叔父さんは諦められないと思うんです。それをぼくがやろうというんです」 「有難う、亮さん」  背中が答えた。立ったまま、貧乏ゆるぎもしない背中だった。 「折角だが、亮さんの気持だけを戴いておく」  亮一が眼を瞠《みは》った。 「悪く思わないでくれたまえ。頑固のようだが、仕方がない。君の気持は、泪《なみだ》が出るほどうれしい。しかし、そりゃ受けないほうがいいのだ」 「しかし、もう二度と日本にはこられないのでしょう?」 「来ない。いや、来られないだろう」 「ですから、これは一生に一度の機会です」 「わかっている。事情が許したら、わたしは、すぐ、亮さんのいう通りになる。久美子は可愛い。そりゃずっと離れているだけに、余計に可愛いのだ。わたしは向うで暮らしていても、久美子の夢をみている。こんなに大きくなった久美子ではなく、まだ幼い姿だ。わたしの膝に凭《もた》れかかってくる久美子だ。そうだ、こんなことがあった。ある朝、わたしが眼を醒《さ》ましてみると、わたしの蒲団の胸の上に、ちょこなんと久美子が来て坐っているんだな。あれはたしか、二つぐらいのときだった。びっくりしたものだ。猫が来て坐ったように重量も感じないのだ。それだけにふいと眼を開けて、人形のようにちょこなんと坐っている久美子を見て、これが自分の子かと思ったくらいだ。そのときの印象があまり鮮かすぎて、夢というと、よくそれが出てくる……」 「ですから余計に……」  亮一は声を詰らせた。 「今の久美子と話をしろ、というのかい?」  顕一郎が引き取った。 「そうなるともう一つ、わたしに余計な夢見がふえる。幼いときの久美子と、大きくなった久美子とね。有難いが、あとで苦しむことになりそうだ。苦しいことに馴れてきた男でも、子供のことで苦しむのはやりきれない話さ……」  野上顕一郎は、煙草の蒼い烟を含んだ風の中に撒《ま》いた。 「変な話になった」  彼はいった。 「亮さんをわざわざ呼び出して、亮さんのいう通りにならなかったのは、すまなかった」 「いいえ、そんなことはありません。ぼくは一向にかまいません」  芦村亮一は、顕一郎と肩を並べた。  松林の向うに、病院かホテルかとも見える白堊《はくあ》の建物があった。鈍い雲が、その白い建物の上に筋を作って重なっている。 「ただ、ぼくは、叔父さんがこのまま日本を出て行かれるのが残念で仕方がないのです。久美子や孝子叔母さんだけでなく、叔父さんのほうが何倍か寂しいと思ってです」 「当たり前だ。当人たちは、何も知らないんだからね。わたしのほうが何十倍苦しいかわからない。逢って話してみたところで、その苦しみが殖《ふ》えるだけさ」 「日本を出て、どこに行かれるのですか?」 「さあ、まだ当てはないがね」 「しかし、叔父さんは、他所《よそ》の国に、籍があるんでしょう? どこの国ですか?」 「教えてもいいが、それがわかると、君たちがあとでそれを手がかりにして探すようになる。そりゃ人情だ。だから、わたしがどこの国の人間になっているか、返答するのは勘弁してくれ」  芦村亮一は叔父の横顔を見た。光線の加減か、最初に逢ったときよりも、耳のうしろに白髪が多く見えた。 「叔父さんがスイスで死亡されたのは」  と彼はいった。 「昭和十九年でした。日本の敗色が歴然となっていたときです。そのとき、叔父さんの国籍が変わったとすると枢軸国ではあり得ない。連合国です。それも、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギーとしか考えられません。まさか、ソ連ではないでしょう。この四つの国のどこかで、叔父さんは市民権を持たれたのです。これは、野上顕一郎という外交官が現地で死亡した直後だったと思います」  野上顕一郎は煙草を捨て、手をポケットに入れた。この姿勢が、空から吹き下りてくる風に対《むか》って、肩を聳《そび》やかしているように見えた。 「叔父さんは、いわゆる、勝手にその連合国に逃避したのではありません。ちゃんと外務省で死亡と公表されているんです。このことは、叔父さんの行動が、日本の政府、特に外務省の首脳筋に了解があったと思わねばなりません。すると、叔父さんの死亡の意味は、叔父さん個人のものでなく、日本という当時の国の運命につながっていることになります……」 「亮さん、もう、止してもらいたいね。古い話だ」 「いや、ぼくはもう少しいわせていただきます。ぼくは一介の医者です。政治のことも、国際情勢も、何も深い知識があるわけではありません。ただ、叔父さんの行動と、外務省の発表とを付き合わせて考えると、どうしても、そこに結論が落ちつくことになります」 「ほう、どういう結論だね?」 「ぼくの臆測です。叔父さんは日本の犠牲になったと思うんです」 「大そうなことだ。わたしはそれほどの人間でもなく、実力もなかった」 「叔父さん自身の評価は別として」  と亮一はつづけた。 「とにかく、当時の日本には、出先外交官の誰かに“死亡”してもらう必要があったといえましょう。ポツダム宣言が出たのは、一九四五年七月でした。つまり、叔父さんが死亡してから一年のうちに、その宣言が発せられたのですが、草稿は、もっと前から準備されていたと思います……」 「何の話か知らないが」  野上顕一郎は少し苛立《いらだ》たしげに遮った。 「そんな詮索を亮さんにしてもらうため、ここに呼んだのではない。わたしは、ただ、亮さんにだけ、わたしの生きていることを知ってもらいたかったのだ。わたしはこうして君の前に立っている。これだけを認めてもらえばいい。さっきも言っただろう。話は現在の時点にだけ限定してもらいたい。過去に戻ることはない」 「しかし……」 「もう、いい、もう。わたしは気が短くなっているのでね。あまりしつこく訊かれると、怒るかもしれない」  亮一は黙った。  東公園のきれいに揃った松林の上に、鳥の群れが飛んでいた。 「いや、乱暴なことをいってすまなかった」  野上顕一郎は、自分の声にはっと気づいたように謝った。 「亮さん、ここで別れよう」 「いいえ、叔父さん、ぼくのいうことはもう少し残っています」 「聞きたくない」 「勝手にいわせてもらいます。叔父さんは、そうして当時の日本の犠牲になった。ぼくがいいたいのは、そのことの原因ではなく、そうした立場に追いこんだ日本が、叔父さんを迎え入れないことです。叔父さんを殺したまま、あとは知らぬ顔をしていることです……当時の責任者の高官は、戦犯として処刑されたのもいますが、戦後、復活している人もいます。現に、指導者として大きな顔をして、大手を振っている人もいるんです。叔父さんのことを知らぬはずはない。その人たちが、野上顕一郎という犠牲者をそのまま放《ほう》っていることです」  芦村亮一は激していた。 「そりゃ無理だ」  野上顕一郎は思わず言って、はっと自分の言葉を抑えた。 「いや、これは、君の考えていることを実際のことだと前提してのことだがね。たとえ、その仮説が成り立っていても、当時の大日本帝国が“死亡”と公表し、新聞にもそのことを報道したのだ。軍人じゃないよ。歴《れつき》とした帝国外交官だ。今さら、あれは間違いでした、ともいえまい」 「いいや、それは出来ないことはないと思います。一人の人間を殺しっ放しにする理由は、どこにもありません」 「ふむ。安価なセンチメンタリズムだ。それとも書生論かな。わたしはきっぱりといっている。時点を元に戻すことは不可能だとね」 「叔父さんは、そればかりをいっている。叔父さんこそ観念論者です。それとも、もし、そういうことになれば、現在の日本に怪我人が出るというのですか? それだけの配慮でしたら、やめていただきたいのです。日本は敗戦となった。何もかも秩序が変わったのです。一外交官が生きて帰ったぐらい何のことがありましょう」 「うむ、理窟は通っているね。君は、いま、日本が敗戦したといったね。だがな……」  言葉が少し切れた。 「だがね、日本の敗戦の片棒を担いだ外交官がいたとしたら、どうなる? これは獅子身中の虫だ」  そこまで言って、顕一郎はあとの言葉を絶った。糸が切れたように、あとの声を絶ったのである。 「叔父さん」 「もう、いい。もう、やめだ」  顕一郎は姿勢を変えた。亮一と真対《まむか》いになった。 「随分、時間が経ったようだ、せっかくの学会をスポイルさせて悪かった」 「そんなこと、ちっとも構いませんが」 「いや、学問は大事にするものだ。それに、いつまで此処に立っていてもはじまらない」  野上顕一郎は二、三歩あるき出した。 「亮さん、じゃ、失礼する」 「叔父さん」  亮一はうしろから迫った。顔が歪《ゆが》んでいた。 「元気でいてほしい。それから、くどいようだが、久美子のこともお願いする。孝子もだんだん年を取ってくる。あれの分もよろしく頼むよ」 「もう、絶対にお逢い出来ないのですか?」 「多分、そうなるだろう。節ちゃんにもよろしく、といいたいが、これは、君の口から伝えては困ることだ。ぼくの気持だけを、君が心に蔵《しま》ってくれていればいい」 「どこかで、どこかで……孝子叔母さんや久美子に気づかれないように、叔父さんが来てくれませんか。どのような計らいでもします」 「有難う……そういう気持になったら、手紙を出してお願いするかもしれない。だが、今のところ、その意思はない」  野上顕一郎は、亮一が従《つ》いて来るのを手を挙げて止めた。 「独りで帰ったほうがいい。君はそこに残っていてくれ」  この意味は、芦村亮一にやがてわかった。別れる人を見送るには、その歩いて行く姿を、そこにじっと立って眺めているに越したことはなかった。  野上顕一郎のうしろ姿が、銅像の台地から石段を降りて行く。その行く手に、芝生の地面と、松林と、空に展がっている雲とがあった。  やや前屈みになったそのうしろ姿は、一度も振り向きもせず、石段を降り切ってから、散歩者のような足どりで広い地面に小さくなって行った。      21  芦村亮一は、福岡の学会から東京に帰った。 「お珍しいわ」  その晩、節子が亮一のすることを見て微笑した。  亮一は帰宅すると直ぐに、電話で孝子を呼び出したのである。それもまだ着替えの済まないうちだった。  出張から帰って、彼が報告を兼ねて孝子に電話することはこれまでもあった。しかし、まだ洋服も脱がないうちに電話をかけるのは初めてだった。 「叔母さんですか?」  と亮一は電話口で言っていた。 「いま、福岡から帰ったんです。留守中は、どうも」  節子には聞こえないが、孝子が、お疲れさまでした、と挨拶しているらしい。 「お元気でしたか?」  と亮一はわざわざ訊いていた。  この訊ね方も変だ。長い間、逢わない人に挨拶しているみたいだった。それに、夫の声もただのお座なりでなく、どこか真剣なところがあった。 「そうですか。で、久美子さんは、どうです」  節子がうしろで、 「いやだわ」  と呟いた。夫がふざけているとしか思えなかったのである。 「君」  と夫は先方の返辞を聞いて、受話器を握ったまま、節子を振り返った。 「明日の晩、君の都合はどうなんだ?」 「何ですの」  節子は愕いた。 「杉並の二人を呼んで、君と一しょに食事をしたいと思っている。久し振りにTホテルへ行こう。あすこのグリルがいい」 「そりゃ結構ですけれど」  唐突だった。節子がどぎまぎしたくらいである。夫はどちらかというと学者らしい慎重な性格だった。こんなに早急にことを決める性質《たち》ではない。 「明日の晩ですが」  と亮一はもう電話口に言っていた。 「節子と二人で、叔母さんと久美子さんとをお呼びしたいんです。久し振りですから、Tホテルのグリルで夕食を摂《と》りましょう。御都合はいかがですか?」  孝子の返辞を聞いているらしい亮一が、 「そうですか。じゃ、夕方の六時半からにしましょう」  と話していた。  節子が慌《あわ》てて、そのあとの受話器を夫から取った。 「叔母さま? 節子です。どうも」  孝子の声が節子の耳に流れた。 「いま、お聞きになったでしょ。芦村が九州から帰る早々にそんなお誘いをかけたんですの」 「そりゃ有難いけれど……何でしょうね、急に?」 「わたくしも」  と節子は受話器を持ったまま笑い出した。 「びっくりしましたわ。だって、閾《しきい》を跨《また》ぐ早々、お宅にお電話したんですもの。きっと、九州の出張で何か感じたのかもしれませんわ」  亮一が、瞬間、はっとした眼になった。 「でも、叔母さま、本当におよろしいの?」 「ええ、ええ、わたくしは結構よ。久美子はいま出ていますけれど、きっと、大丈夫だと思うわ。二人でお招きに与《あずか》ります」 「そうですか。芦村が折角ああ言うのですから、ぜひ、お願いしますわ」 「はい、はい。では、明日の晩六時半ですね」  亮一が妻のうしろから声をかけた。 「こちらからお迎えの車を持って行く、と言ってくれ」  節子はその通りに伝えて、電話を切った。 「叔母さま、びっくりしてましたわ」  と夫の着替えを手伝いにかかった。 「愕くことはないだろう。夕食の誘いぐらいで」 「だって、いつものあなたらしくないんですもの」 「ぼくだって、ときにはこういう思いつきを不意にすることがある」 「お珍しいのね……でも、嬉しいわ。久し振りに御馳走が戴けて」  節子の声がはずんでいた。 「九州は、いかがでした?」  彼女は夫の上衣をハンガーに掛けながら訊いた。 「べつに」  と亮一の声は平静だった。 「学会だから、同じ調子だ」 「そうそう」  と急に彼女は夫に礼を言った。 「思いがけなく福岡からお電話いただきまして、どうも有難う。不意でしたから、余計に嬉しかったんです」  夫が出張先から電話をかけてきたのも初めてだし、九州に行ってからは、たしかにいつもの彼とは違っていた。 「向うでは、どなたかお遇いになりまして?」 「だ、だれのことだ?」  亮一の声がちょっと狼狽《うろた》えた。 「皆さまお集まりになったんですから、お珍しい方もいらしたでしょ」 「うん、そりゃね……そうだ、東北大の長谷部《はせべ》先生にお目にかかった。久し振りだったな。この前、京都での学会には見えなかったが、今度は元気になられて、わざわざ九州までこられたのだ。あの年齢《とし》だが、病後の窶《やつ》れもない」  亮一は熱心に話した。 「そりゃ結構でしたわ。そうそう、京都といえば、あなたとご一しょしたときを思い出しますわ」  亮一は急に黙った。 「風呂、沸いているか?」  と夫は無愛想に訊いた。 「はい、ただいまお加減を見て来ます」  節子は夫の機嫌の変化にとまどいながら部屋を出た。  妻が去ると、亮一は帯をゆっくりと腰に捲いていた。  福岡で叔父の野上顕一郎に出遇った興奮が、まだ胸の中に残っていた。それは節子の顔を見て再び燃え上がったといっていい。口から言い出せないことが、胸の中で内攻《ないこう》した。真実を話してはならないが、何かの仮象《かしよう》で少しでもそれを伝達《ヽヽ》したかった。  急に孝子に電話したのもそのためだった。福岡から東京に帰ってすぐ孝子の声を聞くこと、孝子に話しかけること──それがせめてもの彼なりの気持の伝達であった。もちろん、相手は何のことかわからない。亮一だけの意思表示なのである。  亮一は、出来るなら、孝子も、久美子も、いや、妻の節子も、野上顕一郎の実在に気づかないで、しかも彼の生存を知らせないで、その生存を信じるような話し方をしたかった。  むろん、そのような言葉の技術は不可能であった。  Tホテルのグリルでは、客のほとんどが外人だった。  芦村亮一の真向いに孝子はいた。久美子はすぐ左に、節子は右横にいた。  広いグリルで、食事の間にも絶えず楽団が静かな音色を流していた。 「ほんとに、今夜は思いがけない愉《たの》しみをさせていただきました」  孝子が言った。食卓はコースの半分まで進んでいた。 「ときどき、こんな気紛れが起こるんですの」  節子が笑いながら叔母に言った。 「あら、こんな気紛れなら結構だわ」  久美子がナイフを動かしながら皆を笑わせた。 「これから、たびたび気紛れを起こしていただきたいの」 「実はね」  と亮一は言った。 「福岡の学会が済んで皆で食事をしましてね。そのとき、そうだ、東京に帰ったら、皆で集まりたいと思ったんです」 「うちに帰る早々、すぐにお電話したんですよ」  と節子は註釈を入れた。 「でも、変な電話。お元気ですかって、まるで一年も逢わない人に言ってるみたい」  しかし、それは亮一の本当に言いたい言葉だった。元気かという言葉は、野上顕一郎を頭に置いて口から出たのだった。  こうして見ると、孝子は年を取ったと思う。いつも見馴れているので、老いの進行は分からないが、それでも亮一が節子と結婚した当時の孝子は、まだ三十代はじめの若さだった。遠い記憶が、今つつましげにフォークを持っている彼女の顔に重なってくる。  久美子も大きくなったと思う。ずっと前、久美子を呼んで、こんな食卓を囲んだことがあるが、そのときは、この椅子に可愛い脚をぶらぶらさせていたものだった。まだおカッパだった時代である。  亮一は、こういう場面を野上顕一郎がどこかで見ていたら、どのような顔をしているだろうと思った。彼は思わず辺りを見廻した。無作法にならない程度で、そっと客の顔を眺める。どのテーブルも外国人ばかりだった。銀髪で赭《あか》ら顔の紳士、肥った外国婦人、背の高い男と女──この位置から重なり合って見える客のどこかに、野上顕一郎が外国婦人と密《ひそ》かにテーブルに着いているような錯覚が起きた。 「外国人の方が、やっぱり多いのね」  久美子が亮一につられてか、やはり客席を見廻していた。  が、その言葉は軽かったが、彼女の表情には重たげな真剣さが泛《うか》んでいた。  亮一は、そんな久美子の表情にふと気がついた。 (久美子は、あれを知っているのではなかろうか)  京都での経験である。久美子が寺で遇ったというフランス婦人、Mホテルの真夜中の出来事……節子から聞いたことだが、今から思い合わせると、その数々の材料から、久美子もあのことにおぼろげながら気づいているのではなかろうか。  間接光線の仄白《ほのじろ》い加減のせいでもあったが、孝子の顔は白磁のように澄んでいた。 (この人は、何も知っていない)  その点、久美子とは違っていた。静かで、落ち着いたものだった。  亮一は、孝子のこの静寂を乱すことはないと思っている。  しかし、実は、彼は先ほどから自分の気持が或る不安で動揺していることに気づいていた。ふいと叔父に出遇ったことをしゃべりたい衝動にかられ、その都度《つど》、はっとするのである。  もし、ここで、そのことを孝子や久美子に話したら、一体、どんなことになるだろうか。そのときの彼女たちの歓びを自分の眼で見たかった。彼が想像する以上の場面になるに違いなかった。  亮一は、次第に自分自身が恐ろしくなってきた。叔父に遇ったという言葉が、自分の意志でなく、ひとりでに迸《ほとばし》り出そうな恐怖を覚えた。胸の中に渦巻くようなものが堆積《たいせき》していた。  ここに孝子と久美子とを誘ったのも、いわば亮一のひそかな自分なりの意思の伝達だった。叔父が無事に生きて、しかも、いま日本に来ている。そのことを沈黙の間に伝えているつもりだった。むろん、ひとり合点は承知の上だ。  同時に、そのことは、彼が、どこにいるかわからない野上顕一郎の代理人の位置にいることでもあった。 (叔父さん、見て下さい。叔母さんはこんなに元気です。久美子もこんなにきれいな娘になりました)  彼の心は両方に話しかけていた。  亮一は、雑談するのも恐ろしくなった。自分の言葉がどうひとりでに変わってくるか分からないのである。彼はなるべく三人の聞き手に廻ろうとした。  しかし、これも苦しいのである。聞き手になると、自分の眼が対手に対して観察的になった。話よりも、その顔、身体、眉やまつ毛まで見つめている自分になるのだった。彼は、いつか自分が野上顕一郎になり切って、孝子や久美子に逢っているような錯覚が起きた。  唐突なことだが、亮一は学生時代に読んだ外国の小説を思い出した。たしか「おしゃべり心臓」という題だったと思うが、人間は胸に持っているものをしゃべりたくてしゃべりたくて堪らない、といった心理をテーマにした小説だった。これは強い意志で止めようとしても抑えることが出来ない、という話だった。  亮一は、自分の現在がその主人公だと思った。いや、実はそれ以上なのだ。単なる告げ口ではない。これは叔母と久美子とを一瞬のうちに救うことだった。十八年間、孤独に苦悩してきた孝子を、瞬時に生き返らせることだった。久美子もそうなのだ。父が生きているとはっきり聞いたら、彼女の持っているどこか孤独そうな翳《かげ》も、瞬間に消え失せてしまうだろう。  亮一は、その誘惑と必死に闘っている自分を自覚した。顔では三人と明るい話を交している。しかし、心では激烈な闘いを演じている自分だった。女房にも打ち明けられないことだった。彼は、現在、いかなる名優も及び難い苦しい演技をつづけていた。 「ああ、悪いことをしたわ」  傍の節子が小さく叫んだ。 「添田さんをここにお呼びすればよかったわ。恰度、いい機会でしたのに」  この言葉が亮一の地獄を救った。 「そうだったな」  と彼は強く妻に同感した。  声までひとりでに大きくなった。 「今からでもいいじゃないか。まだ社にいるかもしれない。ここだと近いから、間に合うよ」 「だって、食事はもう終わりましたわ」  久美子がうす赧くなった。 「大丈夫だよ。お茶には間に合う。御馳走はまた別な機会として、話だけでもいい」 「ほんとにそうだわ。ここにお呼びしましょうよ」  節子が言った。  孝子は久美子のほうを見ていた。 「久美ちゃん」  と亮一が言った。 「すぐ電話をしなさい」  久美子はちょっと照れたように渋っていたが、母に相談するような顔を向けた。 「お呼びしたら」  孝子は微笑していた。 「じゃ、電話してみますわ」  久美子は椅子を引いたが、ロビーのテーブルの間を歩いて行くうしろ姿ははずんだような足どりだった。  しかし、彼女は元気のない歩き方に変わって戻って来た。 「添田さん、もう、社をお帰りになったんですって」  添田彰一は、野上顕一郎が生きていると信じた。  当人は昭和十九年にスイスで死亡していることになっている。官報もそのことを発表し、当時の新聞にも出ている。あり得べからざることだったが、現象は彼が生きていることを指向していた。  なぜ、当時の大日本帝国政府が在外公館の外交官を死亡と発表したか。その理由も、いまの添田にはおぼろに分かるのだ。いつぞや、村尾課長を訪問して、野上一等書記官のことを訊いたとき、そのことならウィンストン・チャーチルにきけ、と放言した。ただの冗談ではなかった。苛立《いらだ》って不意に洩らした村尾課長の放言が、実は野上顕一郎の死亡の真相を衝《つ》いている。  野上顕一郎は確かに生きている。しかも日本に来ている。フランス人ヴァンネード氏として再生している。現在、どこにいるかわからない。しかし、まだ日本を立ち去っていない。  このことを前提とすると、事件はもう一度初めから考え直さなければならない、と添田は思った。  これまでさまざまに考えてきたが、そこにはまだ前提となる何ものもなかった。だが、ここに野上顕一郎の生存という大きな標柱を打ち立てると、問題の解明は別な方式に変わってくる。  添田彰一は社を早く出ると、静かな場所を求めた。彼は有楽町の近所で一番|流行《はや》らない喫茶店を択《えら》んだ。片隅に腰を下ろし、いつまでもねばった。客は静かに来て静かに去って行く、そういう店だった。  ──添田が郡山《こおりやま》に行って伊東の家の家族に会ったとき、養子の嫁は確かにこう言った。 (そうだす。おとうはんはお寺まわりが好きで、ときどき、奈良あたりに遊びに行きやはりました。そうそう、上京の前ごろから、一だんと多うなりましたわ。そんで、その日は、夕方、帰りはったが、なんや知らん、えろう考えて、自分の部屋につくねんと閉じ籠《こ》もっていやはりました。それからだんねん、急に、わいはこれから東京へ行って来るさかいと、言い出しなはったのは……)  その塞《ふさ》ぎこんで考えていたというのは、野上顕一郎の生存を寺の筆蹟で知ったときであろう。そして、急に上京を思い立ったのは、野上顕一郎を求めて行ったものと思う。このときの伊東|忠介《ただすけ》の衝動は、たしかに死んだと信じた人間が生きていたという事実に突き当たったときの驚愕なのだ。  しかし、伊東忠介が世田谷の奥で死んでいたのはどのような理由だろうか。彼が他所《よそ》で殺されて死体を遺棄されたのでないことは、当時の警察の検証でもわかっているとすれば、彼は誰かと一しょにその近くに行ったのだ。あるいは、誰かに教えられて単独に行ったともいえる。柔道四段だった元陸軍武官の彼が、そう易々《やすやす》と暴力で用のない場所に連れ込まれるとは思えない。彼はそこに行くだけの理由があったのだ。つまり、添田が当時も考えたように、伊東忠介は誰かを世田谷の奥に訪ねて行ったのだ。  添田は自分の手帳を出し昭和十九年の××国公使館員の名前のところを開いた。職員録から書き抜いたものと彼自身の調査のメモで、これまで何度となく見たページだった。  公使寺島康正(死亡)、野上顕一郎(死亡)、村尾芳生、門田《かどた》源一郎《げんいちろう》(書記生、死亡)、伊東忠介。──  伊東忠介が世田谷の奥に行ったという理由は見当たらない。どの人物も留守宅の住所は全く別なところだった。なぜ、世田谷の奥が伊東忠介を招いたか。  すると、添田の頭に、急に光線のようなものが閃《ひらめ》いて奔《はし》った。それは死亡とついている書記生の門田源一郎だった。 (門田は本当に死んでいるのだろうか)  これは、死んだ筈の野上顕一郎が生存していたという事実から、ここにもまた疑いが起こったのだった。連鎖的な疑惑だった。  門田書記生の死亡は、一体、どこで聞いてきたか。──  添田は、自分がそれを死亡と聞かされたのは外務省の或る役人に会ったときだ、と思い出した。まだ、このリストの関係者の現在をしきりに知ろうとしていた頃である。  その役人は、添田が訊いたとき、こう言った。 「門田君かね。あの男は死んだよ。たしか、終戦後、引きあげて間もなく郷里の佐賀市で亡くなった筈だ」  この言葉から、添田は簡単に門田書記生を死亡と決定してしまったのだ。外務省の役人が同僚のことを言ったのである。間違いはない、と信じたのだ。  しかし、これはもう一度洗い直してみる必要があるのではなかろうか。もし、門田書記生が野上顕一郎と同じように生存していたとすると、伊東忠介の東京での行動は別な解釈になってくる。  もしかすると、門田源一郎は、終戦後、世田谷の方面に住んでいたのではなかろうか。つまり、伊東忠介が殺された現場からそう遠くない地域にである。──  新聞社のデスクに戻ると、同僚が彼を悪戯《いたずら》そうな眼で迎えた。 「添田君、惜しいことをしたな」 「何だね?」 「たった今、君に電話があった。きれいな女の声だったよ。野上という人だった」 「そうか」 「残念そうな顔をしているな。電話の人も、君が帰ったと言うと、がっかりしていたようだぜ」  野上久美子からだったと知った。  今ごろ、何だろう。時計を見ると、八時半だった。夜、社に彼女が電話をかけてくるのも珍しかった。  彼はすぐに久美子の家に電話を頼んだ。 「何度お呼びしても、お出になりません」  と交換台は答えた。 「お留守じゃないんでしょうか」  すると、孝子も一しょに外出したのだ。電話は出先からかかったのだった。それだったら安心である。べつに心配したような変わったことも起こっていない。街に出たので誘ってくれたのかもしれなかった。  少し残念だったが、しかし、彼には仕事があった。  添田は交換台を呼びだして、すぐに九州の佐賀支局を頼んだ。交換台が訊き返したのは、東京から佐賀に電話することは滅多にないからである。  支局が出ると、添田は、面倒なことを頼む、と前置きして、佐賀市に住んでいた門田源一郎という元外務省の役人が、現在どうしてるかを調べてくれ、と言った。 「佐賀のどこでしょうか?」  と先方が訊き返した。 「佐賀市としかわかっていないのです。何とか調べてくれませんか。戦時中、中立国に行っていた書記生ですから、市役所あたりに訊いてもらえばわかるんじゃないでしょうか」  添田は、門田源一郎の本籍を調べている暇《ひま》がなかった。 「やってみましょう」  支局長は快く引き受けてくれた。 「明日と明後日《あさつて》と、二日ばかり下さい。わかったら、原稿便で報告を出します。政治部の添田彰一さんですね?」 「ええ。よろしくお願いします」  添田は受話器を置いてほっとした。  これで報告が来るのに、あと二、三日かかる。添田は待ち遠しかったが、これだけはどうにもならなかった。  仕事は終わっていた。いつでも帰れるのだ。  しかし、添田は、帰る前に寄ってみるところが一軒あった。品川の旅館「筒井屋」だった。伊東忠介が郡山から上京して、最初に泊まった旅館だ。  添田彰一は、あのとき、この旅館を訪ねて主人に会っている。伊東忠介が投宿していた当時の様子などを訊いたのも、この宿の主人からだった。  だが、いま添田は、もう一度主人に訊きたいことがある。それは、伊東忠介の口から、もしかすると「門田」の名前が宿で洩らされなかったかということだ。  伊東忠介は東京の人間ではないから、地理には詳しくない。  彼が世田谷の奥に住んでいる門田源一郎を訪ねたと仮定すると、何かの拍子にその名前が出なかったとは限らない。  少し調子がよすぎるが、何でも当たってみることだ。あのとき、主人がそのことを言わなかったのは、こちらがそれを質問しなかったからだ。  あの宿の主人にとってはさして重要なことではないから、余計なおしゃべりはしなかったのだろう。だが、こちらから言えば、あるいは思い当たることを言ってくれるかもしれない。  添田はこういう意味で、品川の「筒井屋」に一縷《いちる》の望みを託した。添田は社を出ると、品川へ直行した。「筒井屋」には、前に二度ばかり訪れている。駅には近いが、辺鄙《へんぴ》な場所に侘《わび》しげな看板を掲げている旅館だった。構えはそれほど狭くはないが、建物も設備も古い。  添田彰一は玄関に入った。 「いらっしゃいまし」  声はうしろから聞こえた。  振り返ってみると、四十五、六くらいの背の高い男が法被《はつぴ》を着て、しきりとお辞儀をしている。  この宿の下男らしい色の黒い眼の大きい男だが、丁寧なものだった。添田を客と間違えているので、彼は慌てて手を振った。 「ぼくは客ではないんです。御主人がおられたら、お目にかかりたいんです。添田といって、R新聞社の者ですが」 「へえ、かしこまりました」  法被の男は、「筒井屋」という印半纏《しるしばんてん》の背中を見せて奥へ入った。  どうしたのか女中も出てこない。すると、やがて二階から食膳を積み上げた女中が身体を反らせて降りて来た。この女中も、いまの下男も、添田が前に来たときは見なかった顔だった。 「へえ、どうぞこちらへ」  法被の下男は奥から出て来ると、板の間《ま》にきちんと膝を揃えて両手をつかえた。  添田は、その男のあとから奥へ向かう廊下を歩いた。 「どうぞ」  すぐに左手の襖の前で、下男は掌《てのひら》を突き出した。 「失礼します」  添田は襖を開けた。この前来たときに通された同じ部屋だった。  添田の記憶にある宿の主人は新聞を置き、眼鏡を外した。 「さあ、どうぞこちらへ」  濃い眉毛を開いて、すぼんだ頬に笑顔をつくった。 「また、お邪魔します、いつぞやはどうも……」  添田は主人の前に坐った。 「しばらくですね。どうぞ、何度でも遊びに来て下さい。今夜も何か……?」  と主人は添田の顔をよく見た。 「ええ、実はまた、同じようなことを訊きに来たんですが、例の伊東忠介さんのことです。お宅に泊まったお客さんで、世田谷で殺された方です」 「そうですか」  主人は苦笑した。 「まだ、あの事件はカタがつかないんですね?」 「はあ、とうとう警察のほうでも、捜査を一応打切ったようです」 「わたしも新聞を気をつけて読んでいましたが、どうやら、そんなことらしいですな。たとえ一晩でも、わたしのうちに泊まっていただいたお客さんが、あんな気の毒なことになったのだから、わたしも本当に他人のことのようには思われません」  主人は、しんみりとした顔になった。 「それでお訊ねしたいんですが、こちらに伊東さんが泊まったときに、世田谷のほうへ行くということを言ってなかったですか?」  それは添田が前に訪問したとき一度訊いたことだったし、今度はその念を押した恰好になった。 「ええ、それは聞きませんでした。ですから、どうしてあんな場所に行っていたか、わたしどもには全然わかりません」 「それについてですが、伊東さんはあなたたちに、門田さんという名前を洩らしませんでしたか?」 「門田さんですって?」  主人は不思議そうな眼をして、添田の口許《くちもと》を見つめていたが、 「さあ、それは聞きませんでした。一体、門田さんというのは、どういう人ですか?」 「死んだ伊東さんの友だちだと思います。これはぼくなりの想像ですが、伊東さんが世田谷のほうに行ったのは、その友だちの門田さんを訪ねたのではないかと思うんですよ」 「ははあ、そんな形跡があったのですか?」 「いえ、これはぼくの想像だけです。わたしがここに伺ったのは、伊東さんの口から門田さんという名前が洩れなかったかどうかを知りたいのです」 「そんなことは全然聞きませんでしたな」  聞かない方が普通だろうと添田は思った。考えてみると、そんなことを一々言うわけはないのだ。  用事は簡単に終わった。  添田はそのあと、主人と雑談して旅館の玄関を出た。  やはり伊東忠介は宿で「門田」の名前を洩らしていない。添田は万一の頼みを抱いてここに来たのだが、やはりそれはなかったのだ。しかし、そのことをはっきり確かめたというのはその意味では徒労でなかった。  添田が表へ出ると、暗い横からひょっこり法被をきた下男が現われ、添田に目礼して通り過ぎた。  すると、添田はすぐに向うから見たことのある女の顔が歩いてくるのに出会った。彼が気付く前に女のほうからお辞儀をした。 「いや、いつぞやはどうも」  伊東忠介が泊まったとき、その係だった筒井屋の女中だった。添田は、この前、彼女からいろいろ話を聞いて厄介になっている。 「また、やってきましたよ」 「今度はどんなことですか?」  女中は笑っていた。 「なに、ちょっとしたことです。いま、ご主人に会ってきましたがね。そうそう、あなたにここで会えたのは、ちょうどよかった。あなたはあの伊東というお客さんが門田という名前を口にしたのを覚えていませんか?」 「門田さん?」  女中は首を傾《かし》げた。縹緻《きりよう》はよくないが顔が丸いので愛嬌がある。 「さあ、そんな名前は聞かなかったようですわ」 「そうですか」  添田は最後の恃《たの》みの綱が切れたのを知った。 「いま、ご主人もそう言っていました」 「そうでしょう、わたしも聞いていませんから」  女中は手に買物包らしいものを持っていた。 「なかなか、お忙しいですね」  添田はお愛想を言った。 「何ですか、近ごろお客さまが見えるのが多くなりましたので」 「それは結構ですな。商売繁昌は何よりです」  このとき添田の頭に、ふとさっきの法被を被《き》た男の姿が浮かんだ。 「先ほど、法被を被たおじさんみたいな人がいましたが、あれもお忙しくなってお傭《やと》いになったわけですね」 「あのおじさんですか?」 「そうです」 「いろいろと手が廻らなくなったので、旦那が傭ったんです。おかげで、わたしたちは助かりました。でも半分は旦那が同情して雇い入れたようなもんですわ」 「ははあ、気の毒な身の上なんですね」 「何でも奥さんに逃げられて、子供を抱えて困っているんだそうです。店にきて何でもいいから働かせてくれと言ったので、旦那がしばらく置いてみる気になったんですわ。子供は家のほうに置いて、ひとりで住み込んでいます。でも、それは、つい最近ですの」 「道理で、ぼくが前に来たときはいなかったと思いましたよ」 「そうでしょう。きょうで一週間にもならないくらいですから」  添田は忙しい対手の足を停めたことを詫びた。 「どうもお邪魔をしました。また何かあったら、伺いにくるかもしれません。そのときはよろしく」 「さようなら」  添田は駅のほうに歩いた。  翌日、添田は久美子の家に電話した。 「昨夜は、残念でしたわ」  じかに久美子が出た。 「芦村のお兄さまが、一昨日、九州の学会からお帰りになったんです。それで、お母さまとわたくしがTホテルにお誘いを受けたのです。食事がはじまって途中でしたが、お兄さまが、添田さんをお呼びしたら、とおっしゃったので、わたくしがお電話したのですわ。そしたら、もう、お帰りになった、ということでしたので、みんなで失望しました」 「それは失礼しました」  添田は詫びた。 「帰ったわけではないのですが、ちょっと、外に出ていたんです。あれから直ぐにデスクに引き返したんですが、間に合わなかったわけですね。お宅からお電話を戴いたのかと思って、一応、おかけしましたが、道理でお留守だったわけですね」 「残念でしたわ。芦村のお兄さまも、添田さんと何かお話ししたいことがあるようですわ」 「そうですか、九州からお帰りになったんですね?」 「ええ、福岡でした」  添田は「九州」という言葉に引っかかった。いま門田源一郎のことを照会しているのも、福岡ではないが、九州の佐賀だった。一種の暗合を感じた。  それにしても、芦村亮一が自分に何か話したいことがあるというのも珍しいことだった。これまで一度もなかったことである。 「芦村さんのほうには、ぼくからお電話しましょうか?」  添田が言うと、 「そうね」  と久美子は電話の向うで考えている様子だったが、 「いいえ、それはわたくしが訊いてから、御連絡しますわ」  と答えた。  なるほど、あまり馴染《なじ》みのない芦村亮一に自分が直接電話するのも妙な具合だった。 「では、お待ちしています……そのうち、お宅に伺いますよ」 「しばらくお見えになりませんでしたから、母もお待ちしてますわ」 「よろしくおっしゃって下さい」  添田は電話を切ったが、久美子の声が耳についていた。芦村亮一が自分に話したいと言った言葉が意識に残っていたのであった。  添田彰一は佐賀支局から報告が来るのがまち遠しかった。  彼はもっと近い距離だったら、自分自身が行って調べたいくらいだった。だが九州となると、そう簡単にはいかない。すべては支局からの返辞を待つほかはなかった。  二日でその返辞は原稿便の中に入ってもたらされた。  あのとき、電話に出た支局長が自分でザラ紙に報告を書いてくれたものだった。 [#ここから1字下げ] 「先日ご依頼の件を左の通り報告します。お訊ねの門田源一郎氏は市役所その他で調査したところ、佐賀市|水ヶ江《みずがえ》町××番地に居住されていたことが分かりました。早速局員を差し向けて調べましたところ、同氏には死亡の事実がありません……」  ここまで読んで添田はびっくりした。微かな疑念は持っていたが、それが的中したのだった。  あのとき外務省の役人から聞いた言葉で門田氏の死亡を信じていたのだ。人間の心理は一度思い込むと、絶対間違いないものとして少しの疑念も起こさぬことが多い。この場合がそうだった。役人から聞いたことを、添田は絶対の事実としていたのだ。 「しかし、同氏は現在同家に居住していません」  と報告は続いていた。 「……門田源一郎氏はすでに在外勤務中に夫人を失い、子供もありません。現在、同番地には門田氏の実兄夫婦が生活しておられます。つまり、門田氏は終戦後外地から引き揚げると、外務省の役人を辞《や》め、実兄夫婦のところに下宿していたわけであります。  ところが昭和二十一年ごろ同氏は関西方面に行くといって出たまま未だに消息が知れません。実兄夫婦の話によると一応家出人捜索願は出しているそうですが、現在死んでいるか、生きているか消息が知れないそうです。  これについて少し変わった話があります。というのは、門田氏が家出して間もなく、門田源一郎は死亡したという噂が東京の外務省関係の間に立ったことです。実兄夫婦の話によると、多分、門田の失踪《しつそう》を、東京方面では死亡したものと勘違いをして、そのようなことになったのではないかと語っていました」 [#ここで字下げ終わり]  これは一体どういうことなのか、と添田彰一はその報告文を読み終わってから額に手を当てた。  この文面を見てわかったのだが、添田に門田氏の死亡を教えてくれた役人も、噂で錯覚を起こしていたらしい。  しかし、この間違いは一体どのようにして起こったのだろうか。添田はこの辺に何かの事情があるように思われた。  しかし、これで事態は一層明瞭になった。  大和《やまと》の郡山から急遽《きゆうきよ》上京した伊東忠介が、門田源一郎を訪ねて行ったのは、ほぼ間違いないのだ。  このことは、ほかの人たちが門田の死を信じているのに、伊東忠介だけは彼の生存を知っていたことになる。ということは、さらに伊東忠介が大和の地方都市で雑貨屋をいとなみながら、絶えず公使館時代の人間関係に注意深い眼を持っていたことになるのだ。  ひとつ仮定を立ててみよう。  伊東忠介は、野上顕一郎が遺した筆蹟によって、彼が公表されたように死亡したのではなく、生存して日本に来ていることを知った。寺好きだった野上顕一郎の性格がわかっているので、彼が久し振りに大和の古寺を見に来たのだろうと察したに違いない。すると、伊東忠介は野上顕一郎が東京に本拠を置いているものと推定をつけたのであろう。  伊東忠介は早速上京して、門田の隠れ家を訪ねて行った。それがあの世田谷の奥だったのではあるまいか。  それにしても、門田は何のために失踪したのか。そして、いかなる理由で死亡の噂が立ったのであろうか。彼は公使館時代は単なる書記生にすぎなかった。  しかし、添田はここで、また別な考えを立ててみる。  それは、一等書記官の野上顕一郎が、その中立国からスイスの病院に移った事情である。もちろん、単独で野上がスイスに向かったとは思えない。もし、のちの死亡公表が嘘であるとすれば、彼のスイス行はかなりな擬装が必要だったと思える。例えば、野上顕一郎は第一に病人になることが必要だった。  このとき、門田書記生が野上一等書記官に付き添ってスイスに行ったということは十分に考えられる。そうだ、この辺の秘密が大事なのだ。  伊東武官は、野上一等書記官の死亡を本当に信じていた。しかし、野上顕一郎が生きているとすれば、当時スイスに同行した門田書記生に事情を糺《ただ》さなければならないことになる。これが伊東忠介を世田谷の奥に迷い込ませた理由ではなかろうか。  それなら、なぜ、伊東忠介は殺されたのだろうか。果して門田源一郎の線が伊東の生命を奪ったのだろうか。  添田はここまで考えてきて、いやいや、まだ、もう少し考えが足りないと思った。  それは、伊東忠介が品川の宿に泊まったとき、すぐには世田谷のほうには行かず、田園調布と青山をまわっていることだった。  田園調布には滝良精がいた。青山には村尾芳生がいた。両人とも野上顕一郎には極めて近い関係にある。  伊東忠介がこの二人を訪ねたであろうことは、彼が前に考えたところだった。この場合は、ただ、野上顕一郎のことを訊ねに両家を訪問したものと思っていたが、実は、そのことよりも門田源一郎の所在を彼は訊きに行ったのではあるまいか。  つまり、当時の外交官補村尾芳生と、彼の任地に駐在していた新聞特派員滝良精(あとでスイスに移った)とは、門田の現在を知っているのではないか、と伊東忠介は思ったのであろう。彼が両人を訪問したのは、野上顕一郎のことがわからなければ、門田の現在でも知りたいという目的があったものと思う。  両人のうち、どちらかはわからないが、とにかく、門田源一郎が世田谷方面に住んでいることを伊東に教えたのである。伊東はその言葉で世田谷に向かったに違いない。  但し、この場合、添田の想像では、滝良精がそれを伊東忠介に告げたような気がする。  それは、滝良精の態度だった。急に世界文化交流連盟の理事を辞めて、蓼科あたりに引っ込んでみたり、すぐにそこから京都へ向かったり、不思議な行動が多い。秘密めいているし、明らかに滝氏は何者かを怖れていたようだった。  そういえば、かつて、伊東忠介の名前が旧軍人の横の連絡名簿の中から脱落していたことを添田は思い出した。  それは、すでに田舎の雑貨屋になってしまった伊東忠介が古い夢を捨て去ったともいえるが、今度の事実で、そのことはかえって伊東忠介が秘密な連絡を中央方面と保っていたことを暗示しているように思える。  それにしても、生きて行方のわからない門田源一郎はいま、どこにいるのだろうか。  添田は、これはもう一度滝良精と村尾芳生に会う必要がある、いや、ぜひ会わなければならない、と決心した。      22  添田彰一は滝良精氏の自宅に電話で問い合わせたが、やはり氏は留守で、その旅行先もわからないという返辞だった。  留守宅には何かの形で連絡があるに違いなかったが、そこまでは押して訊けなかった。また、行先を家人に口止めしているだろうから、これは質問しても無駄だと諦めた。  あとは村尾芳生氏だった。  村尾氏は京都のMホテルでピストルで狙撃され負傷している。外務省にはまだ出勤していないだろうと思ったが、一応、電話して問い合わせると、やはり病気で出ていないということだった。 「いつまでお休みですか?」 「さあ、あと二週間ぐらいは出てこられないでしょうね」 「いま、どちらにおられますか?」 「よくわかりませんが、伊豆《いず》のどこかの温泉場で静養されていると聞いています。委《くわ》しいことはこちらではわかりません」 「しかし、課長さんですから、あなたのほうは連絡の都合があるでしょう?」 「さあ、そういうことは外部にはお知らせしないことになっています」  やはり、実際のことは知らせてもらえなかった。だが、村尾課長が伊豆の温泉に居ることは、今の電話で初めて知った。  村尾氏はMホテルでは偽名で通し、そのまま京都市内の病院に入って手当を受けていた。京都支局の話でも、負傷はそれほどひどいとは思われないから、すでに病院を去っているのは本当であろう。電話に出た課員が具体的に静養地を教えなかったのは残念だが、伊豆の温泉場と聞いたのは収穫だった。  伊豆の温泉といってもいろいろある。それに、村尾氏は相変わらず偽名で旅館に入っているに違いないから、一々電話で各地の旅館に聞き合わせることもできなかった。  添田は村尾の自宅に直接行ってみることにした。滝の行方がわからない以上、何としても村尾には会いたいのだ。  村尾の家は青山南町の電車通りから裏に入ったところだった。この辺は一帯が中流家庭の住宅地になっている。  その家はすぐにわかった。  添田彰一は玄関の横の赤い楓《かえで》の植込みを見ながら、標札のかかっている格子戸の前に立った。  最初に出た十八、九くらいの女中に代って、三十四、五の、細面《ほそおもて》の女性が出てきた。 「失礼ですが、奥さまでしょうか?」 「いいえ、わたくしは親戚の者ですが、姉はちょっと他所《よそ》に行っております」 「ああ、では、奥さまのお妹さまですか?」 「はい」  玄関に膝をついているその女《ひと》はうなずいた。 「それは失礼しました。村尾さんはご病気で伊豆のほうへ静養に行っていらっしゃると外務省で聞きましたが、奥さまもご一しょにいらしてるんですか?」 「はあ」  夫人の妹というひとは眼を伏せた。そのことではあまり答えたくないという表情だった。 「それはご心配ですね。ご容態はどうなんでしょうか?」 「はあ、有難うございます。何ですか、わたくしは姉に頼まれて急に留守番にきたものですから、まだ委《くわ》しいことはわかっていません」  彼女は言葉を濁していた。 「実は、ぼく、村尾課長さんに、ぜひ、お会いしたい用件があるんです。伊豆はどちらの温泉に行っていらっしゃるんでしょうか?」 「さあ」  彼女は困惑していた。 「何ですか、義兄《あに》はお医者さまに絶対安静といわれたそうで、どなたにもお目にかからないと申しておりました」 「そんなに悪いのですか?」  添田は、もしかすると負傷したあとが悪化したのではないかと思ったくらいだった。だが、これは行先を教えたくないための言訳であろう。 「そんなに悪いとは知りませんでした。けれど、ほんの五分か十分くらいお目にかかれば結構なんです。いえ、決して、ご容態にさわるようなことはしませんし、もし、そうだったらご遠慮して、すぐ失礼します。その温泉地と旅館の名前など教えていただきたいんです」 「さあ」  こういうことにあまり馴れていないとみえて、夫人の妹はおどおどしていた。  彼女は、多分姉から固く行先を口留めされているに違いない。しかし、対手が新聞社というので、彼女もどうしていいかわからないふうだった。 「もし、お伺いするのが都合が悪いようでしたら、こちらから前もって電話でご都合を直接お訊きしてもいいです」  添田は気の毒になったが、そう言わないわけにはいかなかった。  新聞社に馴れていない夫人の妹は、添田の言葉にひっかかった。 「それでは電話番号をお教えしますわ」  彼女はスーツのポケットからメモを取り出した。添田が直接に目的地に行かないで、電話で都合を聞き合わせるといったことで、彼女は安心していた。 「船原《ふなばら》の……」 「船原?」  添田は手帳に控えながら訊いた。 「船原というと、伊豆の修善寺《しゆぜんじ》から入ったところですね?」 「はい、そうだそうです」 「なるほど。旅館の名前は?」 「船原ホテルです。そこは、その旅館が一軒しかないそうです」 「有難うございました。あ、それから」  と添田は急に気づいた。 「そこでは、やはり村尾さんは本名で泊まってらっしゃるんでしょうか?」 「いいえ」  本名ではなく山田《やまだ》義一《ぎいち》という名前だと彼女は教えた。  翌る朝早く、添田は東京を発った。  三島駅まで電車で二時間ほどかかり、それから先はハイヤーだった。狩野川《かのがわ》に沿った下田《しもだ》街道を一時間ばかり行くと、道が右に岐《わか》れている。その狭い道も絶えず小さな川に並行していた。  船原温泉は、山を背にした寂しい場所だった。一軒の旅館のほかは、ほとんどが農家である。山に秋の色が熟《う》れ、刈入れのすんだ田圃には切株ばかりが残っていた。  添田は旅館の白い建物を見たとき、村尾課長の冷たい顔を思い出さずにはいられなかった。  添田は車を降りて、ホテルの玄関に歩きながら困難な仕事に立ち向かう前の緊張を感じていた。そうでなくとも、村尾芳生は京都で不愉快な負傷をして、ここに人目を避けているのだ。一ばん気にいらない新聞記者が一ばん嫌な話題を持って、しつこくここまで追いかけてきている。村尾芳生の苦りきった表情が、会わない先に眼の前にちらついた。  ホテルはそれほど大きいとは思われない。玄関に進むまで、川に沿った庭にいくつもの亭《ちん》があるのが見られた。ここは、お狩場焼《かりばやき》が名物だった。  玄関に出てきた女中も素朴そうだった。 「お客さんで、山田さんという人が泊まっていらっしゃるでしょうか」 「はあ、お泊まりでいらっしゃいますが」  女中は、すぐに答えた。 「奥さまもご一しょでしょう?」 「はい、そうです」 「東京から来た者ですが、奥さまにちょっとお目にかかりたいんですが」  女中は添田の名前を聞いて奥に行った。  尤も、新聞社の名前を言わないから、添田という姓だけでは、村尾が聞いてもすぐに気づかないかもしれない。そのほうがいいのだ。  いずれにしても、夫人だけは玄関に出てくるに違いなかった。その玄関には、ほかの泊り客がどてら姿で歩いていた。  夫人が出てきた。添田が青山の家で見た女性とそっくりな顔だちをしている。三十七、八くらいの背の高い夫人だった。 「添田さんと伺いましたが」  と夫人は彼にお辞儀をして怪訝《けげん》そうに訊いた。 「はあ、前にご主人にお目にかかったことがある新聞社の添田彰一と申します」  今度はポケットから名刺を取り出した。  夫人の顔に軽い狼狽が走った。  これは瞬間に夫の気持を考えて、面倒な対手を迎えたときの表情だった。 「恐れ入りますが」  と夫人は言った。 「主人は身体を悪くして、こちらに静養にきているものですから、どなたにもお目にかからないことになっています」  と微笑を泛べて断わった。 「いや、それはよく承知しております。ここまで押しかけてきたのは申しわけなく思っております。しかし、ほんの五分か十分で結構です。どうか、ちょっとのお時間をおさき願えませんでしょうか?」 「はあ、それが……」  夫人は困った顔をした。明らかに頭から拒絶できない気弱さが、その面長の顔に出ていた。東京からわざわざここまで来たのである。訪問客への気の毒さが彼女の言葉を弱めていた。 「それでは、主人がどう申しますか、一応訊いて参ります」 「恐縮です」  添田は玄関先で待った。  陽が山に黄色い弱い光を与えている。一かたまりの杉林が山肌に黒ずんだ斑《まだら》になっていた。  やがて夫人がすり足で戻ってきたが、その顔つきは困りきっていた。 「あの、申しわけございませんけれど」  彼女は添田の立っている前で身体を折った。 「主人は都合があって、お目にかかれないと申しておりますが」  添田には、これくらいの拒絶は覚悟の上だった。 「ごもっともです。ぼくが静養先まで押しかけてきたのは本当に申しわけないと思っています。けれど、ご主人を目当てにここまできたのですから、ほんの五、六分の時間で結構です。絶対安静ということなら、また引き退がりますが」  添田はそんな言葉を言った。温泉地にきて絶対安静はあり得ないし、ここは病院ではないのだ。医者も付いてはいまい。  果して、夫人はどうしていいかわからない顔つきになっていた。彼女はまた弱い声で同じことを繰り返したが、添田はねばった。 「それでは、少々お待ち下さいまし」  夫人は諦めたように起ちかけたが、添田は夫人のその顔に決意めいた表情の浮かんでいるのを見てとった。  彼はそこに待たされた。その長い時間は、村尾芳生が新聞記者を追い返してしまえと夫人に命じているのを、夫人が何かとなだめているようにとれた。さきほどの夫人の表情からそう判断して間違いないように思えた。  向うの庭にどてらをきた男女客が、女中に案内されて川へ歩いていた。女中は手に籠を提げている。お狩場焼でもするのだろうと、添田はぼんやりとそんな情景を見ていた。  村尾夫人が戻ってきた。今度はその顔に迷いは見えなかった。 「どうぞ、おあがり下さいまし」  女中が傍《かたわら》からスリッパを揃えた。 「それでは、会っていただけますか?」 「はい。何とかそういうふうにさせました」  夫人の顔におだやかな微笑がひろがった。添田は心から頭を下げた。 「どうも申しわけございません。ほんの十分かそこらで退却します」 「何ですか、病人もいま気が立っていますので、どうかお手柔らかに願います」  添田は夫人のあとに従った。玄関から上がって右手の長い廊下を歩く。それは途中でいくつも曲がっていた。 「ここでございます」  奥まった部屋の襖の前で、夫人は添田を振り返った。 「はあ」  添田は思わず上衣を直した。  部屋に入ると、村尾芳生はどてらを着て安楽椅子の上に身体をのせていた。そこは広縁になっていて、正面に山の重なりが遠近の色合いを見せていた。  村尾芳生は添田から見て後ろ姿になっている。添田が声をかける前に、夫人が気を利かせて、夫の傍《そば》によって囁《ささや》いた。 「どうぞ」  と夫人は振り返って、添田のために横に椅子を置いた。 「失礼します」  添田は村尾氏の横側に進んだ。  村尾芳生がわずかに首をうなずかせたが、添田のほうには眼もくれなかった。その横顔は、添田が見てびっくりするくらい痩せていた。 「今日は」  と彼は頭を下げた。 「ご静養のところを申しわけございません。いま奥さまに申しましたように、ほんの僅かな時間だけ、お目にかかりに参りました」  村尾氏からは、すぐに返辞がなかった。わずかに、首を動かして、添田のほうを眼の端で見た。どてらのために肩の繃帯はわからなかった。 「あ、君か」  と初めて言った。声に力はなかった。これは歓迎しない客を迎えて、不承不承に言ったためか、傷のために気が滅入《めい》っているのか、どちらともわかりかねた。 「ご容態はいかがです」  添田は見舞いを言った。尤もこれは負傷のことには触れない言い方だった。事実をかくしている村尾のために、それに触れないのが礼儀だった。 「ああ、うむ」  村尾芳生は口の中で返辞をした。 「突然でびっくりしました。外務省に電話をすると、課長さんのお休みを知ったのです」 「そう」  村尾氏はけむたげな眼をした。 「で、何だね?」 「はあ、失礼します」  添田は傍の椅子に腰を下ろした。 「押しかけてきたことだけでも、ご不快だと思いますが、その上、お叱りをうけるような質問を持って参りました」  添田は、あっさりと言った。彼も廻り道をせずに単刀直入に答えを引き出したかった。 「ふむ」  村尾課長は山のほうを眺めて、顔をこわばらせていた。 「村尾さんが××国に駐在しておられたときのことですが……」  添田がここまで言うと、村尾氏は瞳を微かに動かした。添田が来たのが、やはりそのことだったのかといいたげな不快の表情だった。 「当時、書記生に門田源一郎さんという方がおられましたね?」  村尾は黙ってかすかにうなずいた。不機嫌だった。 「門田さんは、村尾さんもよくご存知だったでしょう?」 「そりゃア」  と村尾はしぶしぶ声を出した。 「同じ公使館だからね。それに、ぼくの部下だから知っているのは当然だ」 「どういう性格の方だったでしょうか?」 「性格? 何だね、今ごろそんなことを訊いて?」  村尾は椅子に背中をつけたままじろりと添田を見た。 「はあ……いつか、あなたにお話ししたと思いますが、ぼくは、大戦中の外交史といったものを書きたいと思っています。そのために、いろいろ資料を蒐《あつ》めているのですが、門田さんのことは、そういう意味で村尾さんから伺いたいのです」 「門田は単なる書記生だからね。何も知ってはいない。あれは、ただ、ぼくらの命令を聞いて、事務的なことをしていただけだ」 「いえ、そういう意味ではありません。……一等書記官の野上顕一郎さんがスイスに転地療養されたとき、野上さんに付き添ってスイスの病院に行ったのが、門田さんだと聞いています。つまり、門田さんの口から、スイス病院時代の野上さんのことを伺いたいのです」  村尾芳生は、やはり遠くの山に視線を置いた静かな眼差《まなざ》しだったが、それは感情を抑えているときの眼つきだった。 「君は、門田に会いたいのかね?」 「はあ。そして、門田さんの人物を村尾さんから伺いたいのです」 「せっかくだが」  と村尾は唇に微かな嗤《わら》いを出した。 「門田君は亡くなったそうですよ」  添田はこの答えを予期していた。 「終戦後、あの男は帰国して、すぐに役所を辞めた。九州の郷里のほうに帰ったのだが、病気で死んだということを聞いている」  声は平板な調子だった。 「そういう噂は、わたしも聞いていますが」  添田も静かに言った。 「しかし、わたしの社では九州の佐賀、つまり、そこは門田さんの郷里なんですが、佐賀支局で調べてもらったところ、実は、門田さんは亡くなったのではなくて、郷里の家を出て行かれたということがわかりました」  村尾の顔に急に動揺が展《ひろ》がった。添田は、口の中で小さく叫んでいる村尾の声を聞いたような気がした。 「知らないね」  と村尾は抑えた声で答えた。 「それは知っていない……しかし、そんなはずはないがね」  と自分で首を傾《かし》げてみせた。 「ぼくは、たしかに門田は死んだと聞いている」 「そうなんです」  と添田はすぐに引き取った。 「九州の実家でも、どういうふうに誤り伝えられたのか、東京でそんな噂があると言っていました。現在は、門田さんの実兄がその家の当主になっていますが、それを不思議がっていたそうです。……不思議といえば、その後、門田さんの行方が全然わからないことです」 「そんなことがあったのかね?」  村尾の顔に皮肉そうな嗤いが泛んだ。 「よく調べたものだね。そいじゃ、なにも、ぼくなんかに訊くことはないだろう。君のほうの社で当人を探して会ったほうがいいようだね」  村尾芳生は一介の書記生のことなど、関心はないといったような態度だった。 「門田さんの行方は調査したいと思います。ただ、ぼくが伺いたいのは、門田さんの性格なんですが?」 「誠実な男だったね。仕事もよく出来た。……そんなことよりほかに言うことはないね」  添田が続いて質問しようとしたとき、夫人が熟れた柿を皿に載せてきた。 「田舎で何にもございません。でも、柿だけは大へんおいしゅうございます。いま、枝からもいだばかりなんですわ。東京のお店屋さんで買うのとは、まるで違った味なんです」  村尾との話が中断した。  夫人は二人の話の雰囲気を察してか、すぐ遠慮して部屋を出て行った。 「門田さんは、野上さんに目をかけられていたのですか」  添田は夫人の姿が消えると同時に質問に戻った。 「どうしてだね?」 「野上さんが病気になられて、スイスに付き添っていらしたからです」 「そりゃア、君。門田が一番若かったからだ。病人を送るのは、忙しいわれわれには出来ることではないからね。そういう場合、やはり若い人に頼む。べつに門田が野上さんと特別な関係があったわけではないよ」 「野上さんの亡くなったのは、前にお聞きしましたが、たしか、胸でしたね?」 「そうだ」 「亡くなるときの意識は、どうでしたでしょう?」 「意識? そりゃわからないね」  村尾芳生はうっかりと答えた。これが添田の待っていた対手の破綻《はたん》だった。用心を重ねていた村尾芳生が思わず穴を見せたのだ。 「ご存じない? それはどういうわけです?」 「どういうわけ?」  村尾芳生は反問したあと、自分でもはっとなって口を噤《つぐ》んだ。しまったという表情がありありと見えた。 「だって、門田書記生はスイスの病院で野上さんの最期をみとっていたのでしょう。すると、あなたが遺骨を引き取りにスイスに行ったとき門田さんから報告があったはずです」 「………」  村尾芳生が横を向いた。眉の間に深い皺《しわ》があった。 「あなたは、門田さんの報告で、野上さんの最期の様子をご存じのはずです」 「たしかに冷静だったと聞いている」  村尾芳生がようやく答えた。 「意識は確かだったんですね。しかし、先ほど、ご存じなかったというのは?」  添田は、ある疑念をその瞬間に感じ取っていた。 「忘れていた。たしかに、門田からそう聞いた」  今度は添田が考える番だった。彼の直感として、村尾芳生は門田書記生から野上一等書記官の最期を聞いていない。いや、これは聞いていないわけだった。今の村尾氏の咄嗟《とつさ》の表情といい、うっかりした返辞といい、それを証明している。  聞くはずがないのだ。野上顕一郎の最期ははじめから無かったのだ。 「その門田さんは、村尾さんと一しょの船で帰られたんでしょうね?」  これにも村尾はすぐに返辞をしなかった。何か迷っているようだったが、 「いや、あれはあとの船だったよ」  と答えた。 「外交官の身分として、終戦となってからイギリス船で帰ってきたが、門田君は残務整理があったので、われわれより一カ月は遅れたはずだ」  残務整理──添田はここでもそれを野上顕一郎の病死に結びつけた。門田が野上をスイスへ送った。その門田は一船遅れて日本に帰ったという。  このことと、門田源一郎が帰国後すぐに外務省を辞めて、病死が伝えられるほど所在を不明にしたこととに、何か関連がありそうだった。 「君」  と村尾芳生がようやく自分を取り戻した。 「なぜ、君は、野上さんのことをそんなに訊くんだね?」 「村尾さん」  添田は初めて言った。 「野上さんの生存説が伝えられているからです」 「何?」  村尾は添田の顔に眼を据えたが、それほど意外な愕き方はしなかった。その言葉をむしろ半分予期していたようだった。 「変だね。そりゃどういうところで噂されているのか知らないが、野上さんは外務省の公表でもはっきりと死亡になっている。こりゃ日本の新聞にもちゃんと出ている」 「知っています」 「そうだろう。君も大戦外交史の資料を調べているなら、むろん、読んでるはずだな。苟《いやし》くも外交官の死が誤報であるはずがない。新聞電報ではない。くどいようだが、日本政府の公表だ」 「わかっています。しかし、それが外務省の誤りだった、という説が強くなっているのです」 「ほう。根拠は?」 「根拠は、野上さんの姿が日本に見かけられるからです」 「変なことを言うね。そりゃ誰が言い出したのだ? え、野上さんの姿を見たという者がいるのか?」 「それを誰だとここでは言えません。しかし、そう言う人がいるのです。ぼくも新聞記者ですから、その人の名前まで言えませんが……」 「そりゃ確かだろうね? 世の中には随分と似た人間がいる。いや、これは余計なことだった。添田君、そんなつまらない話を君とここでしたくない。野上さんのことは、奥さんもはっきりとその死を信じていられるし、遺骨も届いている。今になってくだらない詮索は止め給え。遺族の方に気の毒だ」 「そうですか」  添田は何か言おうとしたのを止めた。 「それでは、ほかのことをお訊ねします」 「もう、止さないか。ぼくはここに来て静養している。君のほうから勝手に押しかけたのだ。ぼくは会いたくなかったが、家内が君のために気を遣って、やっと会う気になった」 「どうも申し訳ありません」  添田は頭を下げた。 「しかし、もう一言教えて下さい。今度は別のことです。それは世田谷の奥で殺された伊東忠介さんです。あなたと一しょに××国の公使館にいた、元陸軍武官です。伊東さんが不幸な死を遂げたことは、村尾さんも新聞で読んでご存じでしょう?」 「知っている」  村尾芳生は無愛想に答えた。 「あなたが公使館時代にご存じの伊東さんは、どういう性格でしたか?」 「また性格かい?」  村尾は皮肉な笑い方をした。 「よく人の性格を訊く人だね」 「伊東さんのことも知りたいのです」 「君のところの新聞社で、伊東君の事件を追及してるのかい?」 「追及してないとは申しません。新聞社はあらゆる事件に興味をもっていますから」 「しかし、君は社会部ではない。たしか、政治部のはずだ。仕事が違いはしないか?」 「その通りです。だが、ときには、新聞社という立場で互いが協力しあうこともあります。今の場合がそうです。伊東さんを殺した犯人は、未だに判りません。性格を伺いたいのは、その事件を追っているわが社の立場からなんです」 「犯人に目星がついたというのか?」 「それが判らないから、いろいろと探ってるわけです」 「なるほど、そうだな」  村尾はようやく返辞を考えてくれる段になった。 「伊東さんは、一口に言うと、典型的な陸軍軍人だった」 「とおっしゃると?」 「それ以外の批評はない。とにかく、あれくらい軍人らしい人はいなかった」 「それでは、最後まで日本の勝利を信じておられた人ですね?」 「もちろんだ。軍人だからね」 「しかし、内地にいた軍人とは違います。外国の、しかも最も大戦の様子の判る中立国に駐在した武官です。客観的な判断が出来る立場にあったと思います。現に日本の内地でも、海軍側は敗戦の必至を考えていました」 「伊東さんは海軍ではなかったよ。陸軍だよ」 「とおっしゃるのは、陸軍だから勝利を信じていたというわけですか?」 「その点は、偏狭なくらいだったな。あの人は中立国にいたが、ドイツの大使館にいてもおかしくはない人だった」  添田の脳裏に、閉ざされたものが一筋の裂け目を見せた。彼はそう感じた。 「それでは、公使館の中にも陸軍派と海軍派の対立があったのですね?」 「………」 「村尾さん、そうでしょう」 「ぼくはよく判らなかった」  村尾芳生は答えを避けた。 「そうですか。村尾さん。では、ぼくの想像を話します。当時、その中立国には、枢軸国側と連合国筋との諜報《ちようほう》機関が入り乱れて活躍していた。そのうち、海軍のほうはイギリス系の意が働いた。もともと、海軍は伝統的に親英的でした……そして、野上さんは、陸軍側よりも海軍側に接近していた。ですから、駐在陸軍武官の伊東忠介さんとは対立していた。こういうふうに想像していいでしょうか?」  不意に村尾芳生が椅子の上で向きを変えた。添田には全然背中だけを見せたのである。 「他人の自由な想像を、ぼくが拘束《こうそく》するわけにはいかないね。そりゃ各自の勝手だ」  声はその背中から聞こえた。 「しかし、添田君。なぜ、君はそんなに野上さんのことばかり追及するんだ? 誰かに頼まれたのか? 頼んだ人がいるなら、その名前を言ったらどうだ?」 「村尾さん」  添田彰一は初めて言った。 「野上顕一郎は、或いはぼくの義父《ちち》になる人かもわからないのです」 「何?」  瞬間、村尾芳生が身体を起こし、顔を向けて添田をじっと睨《にら》んだ。 「どういうのだ?」  眼が添田の顔に坐ったまま動かなかった。激しい光がその瞳にこもっていた。 「野上顕一郎には遺児が一人います。野上久美子といいます」 「うむ……」  村尾はあとの声を呑んでいた。添田は村尾のその視線を正面から受け止めていた。  それを先に外したのは村尾芳生のほうだった。上半身も椅子に倒した。 「そうか……そうだったのか」  村尾芳生が溜息のような声を出した。 「添田君」  声はうって変わって気落ちしたものになっていた。 「そりゃ知らなかった」  正面の山の光線がいつの間にか変わっていた。裾のほうを暗くしていた翳《かげ》りが稜線を頂上まで匍《は》い上がっていた。 「君、野上さんのことを訊くのだったら、滝君に会いたまえ」 「滝さんに?」  添田が椅子から腰を浮かせた。 「滝さんは、どこにいらっしゃるんです?」 「横浜だ。ニューグランドホテルにいるよ」 「ニューグランド?」  添田の頭には、忽ちフランス人ヴァンネード夫妻が泛んだ。東京中のホテルを探して、その宿所が判らなかったのだった。  なるほど、横浜だったのか。 「村尾さん」  添田は村尾芳生の横に起ち上がっていた。 「ヴァンネード夫妻も、そのホテルに泊まっているんですか?」  村尾芳生の肩が痙攣《けいれん》したように一瞬震えた。しかし、言葉は意外に平静だった。 「知らないね、そんな外国人は……それも滝君に訊いてくれたまえ」  添田彰一が伊豆から新聞社にもどってきたとき、夕方になっていた。  同僚が添田の留守に電話のかかっていたことを知らせてくれた。 「芦村さんという人からだったよ」  節子からだと思った。 「君が帰ったら、電話をかけてほしいと言っておられた。六時まで待っているということだった」  節子が出先から電話したのかと思ったが、同僚が書き取ってくれた電話番号は、数字の横に「T大学」と註がしてある。節子の夫の亮一からだった。  これは珍しい現象だ。これまで添田と芦村亮一とは殆ど交渉がない。久美子や節子を通して亮一の噂を聞く程度だったし、対手も同じだった。  添田は二度か三度ぐらいは芦村亮一に会っている。ああいう人物が学者タイプというのか、真面目な印象を受けたものだ。自分からは積極的に話し出さないほうだが、無愛想ではなかった。絶えず他人の話を聞く側に廻っていて、挨拶も普通の人より丁寧だった。  その亮一から、突然、電話がかかってきたのは奇妙だった。それに、自宅からだったら、もっと普通に受け取れるのだが、わざわざ大学に電話しろというのだ。そこに何となく節子を避けているような意味を感じた。  添田はメモの通り電話した。  聞いたことのある亮一の声が流れて出た。 「留守をしていて失礼いたしました」  添田が詫びると、 「御都合を聞かないで申し訳ありませんが、今夜、お目にかかれないでしょうか?」  と亮一のほうから言った。 「結構です。ぼくのほうにはほかに用事もありませんから。どちらに伺ったらよろしいでしょうか?」 「ぼくは、そういう場所はあまり知らないのです。それで、あなたさえよろしければ、この大学の近くにレストランがあります。そこでお待ちしていましょうか?」 「結構です。すぐに伺います」 「場所はおわかりでしょうか? 正門前の電車通りになっています」 「はあ、およその心当たりはあります」  添田はタクシーの中で、芦村亮一が何を思い出して自分を呼んだのかと思った。折が折なので、妙な気分だった。船原温泉で村尾芳生に面会した直後のことだ。ほかの用事は思い当たらない。やはり野上顕一郎に関係したことだと直感した。  芦村亮一は、久美子が京都に行くとき、わざわざ警察の人に頼んだぐらい気を遣っている。尤も、芦村亮一は、野上顕一郎がこの世に生存して、しかも、いま日本に来ていようなどとは夢想だにしていないに違いない。ただ、この間から久美子を取り巻いて妙な出来事が次々と起こっているので、それに関連した相談かと思った。  久美子と添田の間は、節子を通して亮一も十分に知っている。  大学の正門と塀とが長々と見える真向いに、きれいなレストランがあった。添田は二階に上がった。一階は場所がら、学生たちが茶を喫んでいる姿が多かった。  芦村亮一は二階の窓際に腰を下ろして新聞を読んでいた。添田が近づくと、新聞をたたみ、 「やあ、どうも」  と軽く会釈した。 「お電話を有難うございました」  添田は対い合った椅子にお辞儀をして腰を下ろした。 「いや、かえって、突然お呼びしたようで、すみませんでした」  芦村亮一はやはり穏かな挨拶をした。 「お忙しいのでしょう?」 「いや、今はそれほどでもありません」 「新聞社というところは、われわれの世界と違って、毎日の出来事を追っかけているようですから大へんだと思いますね。まあ、われわれだと、いつも同じようなことばかりをやっていて、ときには、退屈に思うこともありますがね。その点は、活気のある仕事ですね」  芦村亮一はそんなことを言って、なかなか添田を呼びつけた本題に入らなかった。  が、自分でメニューから品物をえらび、給仕に命じたりして、細かい心遣いを見せた。  食事の間も、いつも節子や久美子が世話になるという礼を述べたり、さらに新聞社の仕事のことでも、二、三質問したりした。  しかし、添田彰一は、この病理学の助教授が興味で世間話をしているのではないことはわかっていた。  芦村亮一は、もっと重大な用事を添田に持っているのだ。しかし、それがすぐに言い出しにくいので、口に出し得ないのだ、と想像していた。  レストランの二階から見ると、塀越しに大学の灯《ひ》が見える。それは、亭々と伸びた銀杏《いちよう》の黒い梢の間からも洩れていた。  表を学生が口笛を吹いて通っていた。 「実は、この間、九州に学会がありましてね」  助教授は突然言い出した。 「場所は福岡ですが、……あすこは地方に珍しい大都会ですね」 「はあ、ぼくも福岡は出張があって行ったことがありますので、よく知っています」  添田も相槌《あいづち》をうったが、なぜここで福岡の話が出るのかわからなかった。やはり、世間話の続きである。 「ほう、あなたもいらしたことがあるのですか?」  助教授は、びっくりしたように言った。こういうところが、学者の世間知らずかもしれない。自分だけが珍しいところに行ったように思っている。 「ぼくは散歩に東公園というところに行きました」 「九州大学のすぐ近くですね。しかし、海が見えてきれいな点は、やはり西公園ですよ。玄界灘が丘の下に展《ひろ》がっていて、海に突き出た細長い島が正面に見えるんです」 「ああ、そうですか。ぼくは西公園というのは知りません。しかし、東公園は……」  なぜ公園の話ばかりするのか、添田は興味のない相槌を打っていた。  ──芦村亮一は野上顕一郎と出会ったことを、この添田彰一を呼んで話したかったのだ。  彼は誰かにそれを話さねば気が落ちつかなかった。この間、九州から帰ってすぐに野上孝子や、久美子や、妻の節子をつれてホテルに食事に行ったが、それは、なんとなく自分の愕くべき体験を気持の中で伝達したつもりだった。しかし、当然なことに、三人の女たちは何も感じとらなかった。結局、自分の意図が無意味だとわかった。  やはり、これは、言葉に出さなければ気分がおさまらなかった。しかし、その話し対手の選択がむつかしい。むろん、孝子も久美子もこの聞き手から外さなければならない。  妻の節子も不適当だった。  彼女らはあまりに野上顕一郎に密着しすぎている。だからといって、関係のない第三者はそれ以上に適当でなかった。すると、やはり添田しかいないのだ。添田の位置は、将来、久美子の夫として野上家に接着しているし、肉親でないという点では距離がある。つまり、このほどよい距離が芦村亮一に添田を聞き手として択ばせたのだった。  だが、いざ、本人を呼んで話しだす段になると、何にも言えなかった。これをうち明けると、添田は久美子に伝えるかもしれない。口止めしても洩れそうだった。久美子は母に告げる。  その結果の重大さが芦村亮一をこの場になって怯《ひる》ませていた。  ──このような点では、添田彰一もほぼ似た心理だった。  添田は野上顕一郎が生存していることを信じている。しかも、それはフランス人ヴァンネードとなって来日していると想像していた。この信念は、たった今、伊豆の船原温泉で村尾芳生に聞いたことでさらに深めた。  添田が一ばんひっかかっているのは、野上顕一郎にフランス人の妻があることだった。この事実がなかったら、彼も勇を鼓《こ》して野上孝子や久美子に自分の推測をうち明けたかもしれない。しかし、顕一郎に妻のあることがどうして口に出せようか。いや、当の孝子だけではないのだ。自分の眼の前に坐っている節子の夫芦村亮一にさえ、告白するのは困難だった。  節子の夫という亮一の立場に適当な打ち明け対手を見出しているのだが、この話が彼の口から妻の節子に伝わり、さらに孝子、久美子と伝達されたときの衝撃を考えると、うかつには言えないのだ。  たしかに野上顕一郎は生きている。それを知ったときの孝子や久美子の悦びはどのようなものであろうか。だが、内容が顕一郎の新しい妻の存在に突き当たると、折角の悦びは一どきに別な感情に変わってくる。……  一方、芦村亮一も福岡の東公園で野上顕一郎に出遭った話を、ただ公園の序章だけで停滞させているのは、添田が今日、伊豆に行ったことだけを話しているのと同じ逡巡《しゆんじゆん》だった。それから先の内容は、二人とも互いにカーテンを閉めていた。 「ほう、伊豆にいらしたのですか?」  芦村亮一は添田の話を表面《うわべ》では面白そうに聞いていた。 「ええ、ちょっと用事がありまして。今朝発って、たった今帰ったばかりです。あ、そうだ、お電話をしたときが、恰度、社に戻ったときなんです」 「そりゃお忙しい」  と亮一は同情したように言った。 「せっかく、伊豆までいらしたのだ。せめて、温泉にでも一晩おつかりになるとよかったのに」 「いや、そうもいきませんでした」 「伊豆は、どちらの温泉ですか?」 「船原温泉でした」 「ああ、お狩場焼で有名ですね。あれは、ぼくの友人が一度行ったと言って話しているのを聞きました」  一体、何の話をしているのだ。ここでも伊豆の温泉だけが会話の上をすべり抜けていた。  ──添田彰一は、芦村亮一がどのような用事で自分を呼びつけたか、次第にわからなくなってきた。食事が終わっても、遂にそのことに触れない。コーヒーが出た。  添田は対手の本題を待った。茶を喫んだら、もう、話す時間はないのだ。 「どうも、わざわざお呼び立てして」  と芦村亮一は間《ま》の悪そうな顔をして言った。 「べつに大した用事はなかったのですが、一度、あなたにお会いしたかったものですから」 「はあ?」  添田は助教授の顔を見ていた。 「いいえ、いつも久美子がお世話になっているので、あなたにはお礼を言いたかったのです」 「とんでもない」  添田は言ったが、亮一が呼んだのは果してそれだけのことだろうか。彼は肩すかしを喰わされたような気になった。 「では、これでここを引き揚げましょうか?」 「はあ」  芦村亮一は、鞄を持ち、カウンターのほうへ歩いた。そのゆっくりした足取りには、亮一自身の迷いがまだ残っていた。  しかし、遂に機会は失われた。二人は肩を並べて階段を降りた。階下の喫茶部には、相変わらず学生たちが多い。芦村助教授の顔を見て挨拶をする学生もいた。  二人は電車通りに出た。停留所まで歩いていると、並んでいる古本屋の奥に電灯が点いている。幾つもの山になった古本が、侘しく光を受けていた。 「添田さんのお宅はどちらでしたっけ?」  芦村亮一が訊いた。 「はあ、芝の愛宕《あたご》町です。社の独身寮がそこにありますから」 「ああ、そうですか。それでは、ぼくは道が違いますから、タクシーに乗って途中までご一緒しましょう」  芦村亮一は、ちょうど通りかかった空車を見つけて手を挙げた。  タクシーの中でも、二人は何の話もできなかった。五分もすると、添田は下りなければならなかったし、話のつぎ穂もなかった。妙な具合で添田はタクシーを下りた。 「失礼しました」 「ご免下さい」  芦村亮一の影をのせた車は、添田の前から走り去った。  添田の下ろされたところは、湯島の寂しい通りだった。両側の並木が、暗い中でも色づいている。添田は聖堂のほうへ足を向けた。この通りは添田の好きな道だった。  芦村亮一は何のために自分を呼びつけたのだろうか。ただ、久美子の礼を言うためだったとは思われない。芦村助教授は、本当は別のことを言いたかったのではなかろうか。  それが言い出せないままになった。こう想像して間違いないようだ。何となく、ちぐはぐな気分で別れたのも、そのせいだと思われる。  では、芦村亮一は何を打ち明けたかったのだろうか。そして、添田の顔を見て、遂にそれが言い出せなかったのは、どのような理由によるのだろうか。  ここで添田は、自分の心理を芦村亮一に置きかえてみた。 (芦村亮一は、野上顕一郎の生存を信じている)  それが自分を呼んだとしか思えない。亮一も、その事の重大さは、妻にも、妻の従妹の久美子にも、告白できなかったのではなかろうか。しかし、黙ってはいられない気持が自分を呼んだのではなかろうか。  ここで、添田は、芦村亮一が今の自分の立場と、極めて強い相似性を持っているのに気づいた。  後悔が添田の胸に湧いた。思い切って自分のほうから言い出せばよかった。すると、芦村亮一も本心を打ち明けてくれたかもしれない。添田は、芦村亮一がどの程度に野上顕一郎の生存を信じているか、そして、そのデータをどの広さまで握っているのか、急に知りたくなった。  添田の眼に、御茶《おちや》ノ水《みず》駅の灯が見えてきた。暗い中で、ホームは汽船のように浮かんでいた。  そのときだった。添田は、はじめて村尾芳生の言葉の意味に気づいた。──  あれは、久美子を伴《つ》れて横浜のニューグランドに行け、ということだったのだ!      23  品川の旅館筒井屋の主人は、帳場から自分の部屋に戻った。帳場は玄関のすぐ脇だが、主人の部屋は廊下を歩いて奥まったところにある。客室の方角とは別に、調理場や傭人《やといにん》を寝かせる部屋のつづきである。  今夜は早くから泊り客が入った。品川駅が近いという地の利もあって、小さいが忙しい宿屋なのだ。その代り、客筋はあまり上等とはいえない。  主人は襖を開けて座敷に入ったが、六畳の中央で立ち停まった。  壁際には侘しい机が一つ置いてある。女房のいない独り者の生活で、身のまわりは女中がみてくれている。しかし、この部屋の掃除だけは、主人の筒井源三郎が自分でやっていた。整理はよく行届いている。その几帳面さは、彼の生来の潔癖というよりも、過去にしつけられた習性といったものを感じさせた。  筒井源三郎は立ったまま、濃い眉の下の眼を机の上に注いでいた。天井から吊り下がった電灯が、顴骨《かんこつ》の出た彼の頬に黒い窪みをつけている。  強張《こわば》った表情だった。眼が部屋を見まわした。これは自分の部屋なのである。誰もここには寄せつけないようにしている。  しかし、筒井源三郎は、いま、この部屋に、自分が出たときの空気とどこかが変わっていることを感じているのだ。留守の間に澱《よど》んだままになっている筈の空気とは違う。誰かが入って乱したという感じだった。  主人は机の上に置かれたものを丹念に眺めた。はしに、積み重ねた帳面、インクスタンド、ペン、煙草のピース、鉛筆、便箋。──平凡だが、実は、それぞれの品に目じるしがあったのだ。たとえば、帳面の積み重ねが、彼なりの心憶えのかたちになっていた。インクスタンドとペンの置き具合にしても、便箋のやや斜めになったかたちにしても、それぞれに彼の工夫があった。留守の間に少しでも動いていれば、ひと目でわかるようになっていた。  重ねた帳面のかたちに狂いはなかった。インクスタンドとペンの位置も正確に自分の置いた通りだった。便箋──これは位置は違わないが、少し感じが変わっている。つまり、一度は表紙をめくって中身を見たらしい形跡がある。表紙がやや下の紙とズレているのだ。  主人は襖を開けて、廊下から女中を呼んだ。 「およね、およね」  二階の座敷で泊り客の騒ぐ声がする。主人は、もう一度、手を鳴らして呼んだ。  遠くから返辞があって、顔の円い、赧《あか》い頬の女中が小走りに廊下を歩いてきた。 「お呼びですか?」 「こっちに入ってくれ」  主人は女中を部屋の中に入れた。 「おれの留守の間に、誰かこの部屋に入ったかい?」  眼が自然と鋭くなった。 「いいえ」  女中は主人の真剣な顔色に気づいて立ち竦《すく》んだ。この女中は、添田がここに訪ねてきたとき、殺された客の伊東忠介のことを答えた女である。 「おふさは」  と主人はもう一人の女中の名前を言った。 「ここに入らなかったか?」 「気がつきませんでした。でも、旦那さんが帳場に坐っていらっしゃる間、わたしたち二人は、お客さまの部屋でてんてこまいでしたから、おふささんもここにくる暇はなかったと思います」  主人は黙って考えこんでいる。 「栄吉《えいきち》はどうしている?」 「表のほうにいるようです」 「そうか」 「旦那さん、何か部屋の物が無くなっているんですか?」  女中が訊いた。 「いや、そういうわけではない……」  女中は怪訝《けげん》そうに主人の顔を眺めていた。 「まあ、いい。誰もここに入らなかったら、それでいいんだ。ここは、お前も知っているように、おれが掃除をしたり、片づけたりしているのだからな」 「旦那さんの留守の間に、わたしは入ったことはありませんわ」 「よしよし。もう、いいから、向うに行ってくれ」  主人は女中を去らせると、うしろの襖を閉め直し、机の前に坐った。  抽斗《ひきだし》を開けて検《しら》べる眼つきになった。そこにもいろいろな物が入っているが、掻き廻された跡はない。  主人はふところから煙草を出し、マッチをすって、烟を吐いた。かなり長い時間そうしていた。  廊下に傭人の足音が聞こえる。客座敷では、男の声が二、三人で笑い合っていた。  階段を降りて浴室に案内するような様子が音になって伝わってくる。夜の八時から十時の間が旅館の忙しい時間だった。  主人はしばらくそれを聞いていたが、短くなった煙草を灰皿にこすりつけると、机の前から起《た》って押入に歩いた。襖を開けると、自分だけ用の蒲団が積み重ねてある。几帳面なたたみ方で、まるで軍隊のように整頓してある。  主人は蒲団の間に手を入れた。隠したところから取り出したのは、ハンカチ函《ばこ》のようなうすい紙函だったが、蒲団の重みで少しひしゃげていた。  彼はそれを机の上に置いた。蓋を開けると、別な便箋が出てきた。それを机の上にひろげたが、書きかけの紙が四、五枚挿んである。  主人は書いたところをはじめから読み直した。ときどき、文句を消したり、付け加えたりしている。最後は文章が途中で切れたままになっている。  彼はペンをとった。そのつづきを書きはじめた。  背を丸めて、主人は文字を書くのに熱心になっていた。ときどき、ペンが渋滞した。そんなとき、彼は煙草をすって、文句を考える風だった。暗い表情は、電灯の光線の加減だけではなく、深い皺が額に集まっていた。  廊下の足音がこの部屋の近くにくると、彼は急いでその上にほかの紙を置いた。一方の耳で音の気配を聞いている。 「旦那さん」  襖の外で女中が呼んだ。 「何だ?」  振り返って少し開いた襖を睨んだ。女中は半分顔を出して、主人の怕《こわ》い顔付にぎょっとなっている。 「用事があるなら、早く言いなさい」 「はい、楓《かえで》ノ間《ま》のお客さんが、部屋が狭いから、も少し広いところに移してくれ、とおっしゃいますが」 「あの部屋は、今夜十時にくるお客さんの先約があるだろう、断わってくれ」 「そう言いましたが、そちらのお客さんをこちらに移すよう、何とかしてくれないか、とおっしゃるんです」 「断わってくれ」  主人の声が尖《とが》った。 「では、そのままご辛抱下さい、と申しましょうか?」 「いや、お泊めするのを断わるのだ」 「え?」 「出て行ってもらいなさい。お金は一銭も戴かないで、出てもらうのだ」  |癇癪を《かんしやく》起こしたような険悪な声だった。女中はびっくりして、返辞も出来ずに立ち去った。日ごろは温厚すぎるくらいの人なのである。  主人はまた便箋に眼を戻している。ペンを執ったが、女中が見た怕い顔はつづいていた。  それからたっぷり一時間近くかかって、主人は手紙を書きつづけた。全部で便箋に十枚ぐらいだったし、それも前に書きかけた分を入れてである。普通の手紙にしては、大そう時間をかけている。  主人はようやく机から封筒を出した。  丁寧に宛名を書き、裏を返して差出人の名前を入れた。  便箋を丁寧に揃えて畳んだ。  その手がふいと途中で止まった。耳が何かを聞いたからだ。手紙を帳面で隠し、あわてて封筒をその下に押し込んだ。  主人は起って障子を開けた。すぐ前の八手《やつで》の葉が部屋の電灯の光を白っぽく受けた。 「誰だ?」  光の届かない暗い地面を主人はのぞいた。 「へえ、栄吉でございます」  半纏を着た男が、しゃがんだまま首を上げた。その顔だけに電灯の光が当たった。 「お前か」  四十五、六の色の黒い眼の大きい男だ。この顔なら添田もこの前、この家《うち》に来た帰りに道路で出遭っている。 「何をしている?」 「へえ、あんまり溝《どぶ》が詰まっていますので、ゴミを掃除しております。昼間はなかなか手が廻らないので」 「そうか。……お前、ずっとそこにいたのか?」 「いいえ、たった今です。ちょうどやりかけたところなんで」 「ご苦労だな。しかし、今夜は客が多いようだから、玄関のほうに行っていてくれ」 「へえ」 「掃除は、明るい昼のほうがいいよ」  主人は障子を閉めた。  そのままそこにたたずんで、外の気配《けはい》を聞いている。下男の足音が過ぎた。身体でも触れたのか、八手の葉が微かに鳴った。  彼は机に戻り、折り畳んだ便箋を封筒にいれ、糊をたっぷりとつけて封をした。別な抽斗から切手を取り出し、表の隅に二枚ならべて貼ったが、印刷でもしたように几帳面な位置だった。  起ち上がると、それをポケットに入れ、上から押えるようにして襖を開けた。本能的に廊下を見たが、離れたところで女中の姿が横切っただけだった。彼は玄関へ出た。  客用の杉下駄を履いた。下駄の表には「筒井屋」という四角い焼判が捺《お》してある。 「旦那さま、どちらへ?」  通りかかった赧い頬の女中がその姿を見て訊いた。 「うむ。ちょっと、そこだ」  主人は表へ出た。  玄関の正面には古風な大時計が下がっていて、真鍮色《しんちゆういろ》の振子がゆっくりと動いているのだが、文字盤は九時四十二分を指していた。  玄関を出るまで、主人はゆっくりとした動作だったが、自分の家の前を離れると、急に走り出した。下駄の音が道に響いた。若い者が三人肩を並べて歩いてきていたが、一人が身体をよけた。 「あのオヤジ、何を泡食《あわく》ってやがるんだろう」  と彼のうしろを見送って舌打ちした。  筒井源三郎は、二百メートルほど離れているポストに辿《たど》り着いた。品川でもここは裏通りになっているので、人通りも少ない。道はそこから坂になっていて、暗い邸町につづいている。  主人はポケットのふくれた封筒を取り出すと、ポストの口に差し入れた。ためらいが指から手紙をすぐに放さなかったが、やがて、落下の音が赤い筒の中で微かにした。彼は顔を歪《ゆが》めた。  彼は自分の家のほうへ引き返した。ポストに走ってきたときとは、まるで違った足どりだった。肩を落とし、うつ向いている。いま投函した手紙の文句をまだ心で読んでいるような恰好だった。  自分の影が急に道路の前に映ったのは、うしろからヘッドライトが射したからだ。彼は気がつかなかったが、この車は、ずっと前からライトを消して、その辺に駐車していたのだった。  車は黒塗りの大型外車だった。これが彼の横で速力を落とした。 「もしもし」  車の中から、人の声が彼を呼びとめた。運転手台も、客席も灯《あかり》がなく、真暗だった。ただ、窓からのぞいた運転手の顔だけが外灯に淡く浮かんだ。二十四、五ぐらいの、長い顔だった。  筒井源三郎は足をゆるめた。と同時に、車も彼の傍にならんでぴったりと停まった。 「ちょっと、お伺いしますが」  運転手はペコリと頭を下げた。 「この辺に、山岡《やまおか》さんという家があるはずですが、ご存じないでしょうか」  これは普通のことだ。運転手が、この近くの住人だと見て、彼に地理を訊くのである。 「山岡さん?」  筒井源三郎が首をかしげて近所の家を思い出そうとしているとき、 「よしよし、ぼくが訊く」  と別な声がして、客席のドアが開いた。  普通の車だったら、ドアが開けば自然にルームライトがつく仕組みになっている。しかし、この車はどういうわけか、ドアが開いても真暗だった。この不思議さに筒井源三郎はすぐに気がつかない。 「恐れ入ります」  暗い座席から声が来て、同時に、ぼんやり姿が動いて見えた。 「山岡さんというのは、この辺の番地とは合ってるんですが、どうも、家がわかりません。ご主人は農林省に勤めていらっしゃる役人ですが」 「さあ」  記憶にないのだ。 「ちょっと、私にはわかりませんが」  筒井源三郎が答えたとき、やはり暗い座席から、今度は違った声が飛んできた。 「やあ、あんたは、筒井屋のご主人じゃないですか」  馴れなれしい調子だった。 「は?」  主人がこれを自分の家に泊まりにきたことのある客か、と考えたのは無理もなかった。思わず腰を半分かがめて、 「どちらさまでしょうか?」  と訊いたのも当然の動作だ。 「ぼくだよ。ほれ」  向うは自分の顔を見せようとする。生憎《あいにく》と外の光が暗いから、宿の主人には判別がつかない。 「しばらくでしたな」 「どなたでしょう?」 「判りませんか? まあ、こっちをのぞいて下さい」  この言葉に誘われて、筒井源三郎が開いたドアの横から中に近づいた。  その瞬間、彼の背中は強い力で突き飛ばされた。いつの間にか運転手が席を降りて、彼のうしろに廻っていたのである。  旅館の主人の身体は車の内に向かって前のめりになった。その襟《えり》を誰かの手が掴んだ。主人は自分の反動でせまい床に転がった。横倒しになった身体は、何人かの脚と、運転手の座席裏の間に挟まった。  途端に、彼の身体がまたはずみをつけた。車が急な速力で走り出したのである。  あっと言う間もなかった。宿の主人は襟首を掴まれて上半身をひき起こされた。暗い中で人間の力だけが動いていた。主人が次に気づいたのは、自分が人と人の間に無理にひき据えられたことである。これも強い力で押えつけられた。 「何をする?」  彼はようやく声を出した。が、あとがつづかなかった。彼の咽喉に男の腕がはまり込んだのである。  筒井源三郎は、自分が締め殺されるかと思った。しかし、腕はそれ以上に彼の咽喉を絞めなかった。これは声を出させないために対手がとった方法とみえた。呼吸《いき》が苦しい。  車は暗い邸町の坂をかなりな速度で走っていた。明るい通りが窓に幾つも通り過ぎた。知っている町だったが、今は彼とは隔絶《かくぜつ》した世界だった。商店のネオン、道を歩いている散歩者、すれ違うバス、バスの中に見える乗客──誰もが拉致《らち》されて生命の危険に瀕《ひん》している彼とは無縁だった。いや、交番さえそこにあるのだ。巡査が赤い電灯の下で往来を眺めていた。 「もう少しの辛抱です」  耳の横で隣の男が囁いた。低いが、太い声だった。 「苦しいでしょうが、こうしないと、あなたが声を出すからです」  筒井は、声を出さない約束をすると手真似で対手に伝えようとしたが、一方の腕が傍の男に握られているので、自由が利《き》かなかった。それもがっしりと押え込んだ力にである。  車は順調に道を走った。みんな知っている道路ばかりだった。狭い路は、広い通りに出た。ゴーストップが幾つもある。赤信号にかかると、窓際の男が彼を外から隠すように姿勢を変えた。  道は目黒《めぐろ》区に入っていた。見憶えの建物から判断して、真直ぐにゆくと、中目黒《なかめぐろ》に出るのだ。祐天寺《ゆうてんじ》が過ぎた。東横線のガードの下を潜った。宿の主人が愕然《がくぜん》としたのは、車の方向が三軒茶屋《さんげんぢやや》の方角へ向かっていたことである。彼がその方角に恐怖する理由が自身の記憶にあった。  宿の主人は藻掻《もが》いた。 「おとなしくしなさい」  子供に聞かせるような調子だった。 「声を立てると、われわれはもっと手荒なことをしなければなりません」  彼を挟んだ両方の男は、どちらも箱のような頑丈な体格をしていた。その言葉にはいささかの空威《からおど》しもないようにみえた。  三軒茶屋の雑沓《ざつとう》した交叉点《こうさてん》に着いた。ここでも、ゴーストップがこの車をしばらく休ませた。窓に灯のついた電車が走る。童画でもみるような愉しい電車だった。すぐ横に、いや、横ばかりではない。前も、うしろも、タクシーやハイヤーがとり巻いているのだが、むろん、この車の中の異変に気づいていない。主人にとっては、みんな手の届くところにいるのである。  車は走り出したが、その後も宿の主人にとって周囲のあらゆるものが無縁であることに変わりはなかった。  車は広い道の邸町を進んだが、やがて、それが狭くなった。経堂《きようどう》の駅の灯が窓に僅かな間見えたが、それも急角度に曲がった。あとは場末の暗い町つづきになる。十時過ぎなので、戸を開けている店も少なかった。ただ、狭い路を車がヘッドライトをつけて走ってくるだけである。むろん、その光がこの車の中を照射しても、対手がこちらの出来事に気づくはずもない。  家並みは切れて、畑と雑木林の多い区域に入った。路も田舎じみてきた。  車がその路から岐《わか》れた細い径《こみち》にすべり込んだ。車の屋根を鳴らしたのは、茂った梢の先だった。径は森の中につづいているが、その先にゴルフ場があるだけで、人家は無かった。夜は人の通らない径だ。  車は雑木林の下に隠れるように停まった。  声を出しても、容易に遠くまで届かない土地とみえた。 「窮屈な目にあわせましたね」  宿の主人の頸に腕をかけた男が、それを外してから言った。 「さすがに、ここまできて騒がれなかったのは立派でした」 「騒いでも仕方がないだろう」  筒井源三郎は自由になった手で自分の咽喉を撫《な》でた。 「いい覚悟です。門田さん」  宿の主人に向かって呼んだ名前だった。暗い中で主人の身体が凝固したようになった。 「いつからそれがわかったのかね?」  彼は落ち着いた声を出した。 「伊東忠介さんが、ここで殺されたずいぶんあとですよ」  対手の声も監禁者の調子に合わせた。 「われわれは、懸命に伊東さんを殺した犯人を調査しました。伊東さんが単純な動機で殺害されたのでないとわかっていましたからね」 「君たちは、伊東元中佐と終戦後もずっと連絡を取っていたわけだね?」 「お察しの通りです」 「君たちの団体の名前をいいたまえ」 「名前はここで言う必要はありません。とにかく、伊東元中佐とわれわれグループとは一つの志をもって団結していたことだけは知って頂きます」 「ぼくの素姓がどうして判ったのかね。伊東君から聞いたのか?」 「的確には、中立国公使館勤務の元書記生門田源一郎氏が、現在品川の旅館“筒井屋”の主人筒井源三郎氏になっているとは、伊東さんは教えてくれませんでした。しかし門田書記生が東京にいるということだけはほのめかしていました。それは、伊東さんが門田さんとの昔の誼《よし》みでわれわれには黙っていたのだと思います」 「それがわかったのは?」 「伊東元中佐が奈良から出てきて、世田谷の奥で殺されるまで、どこに泊まっていたかを知ってからです。いや、正直にいって、そのときはまだ何も気づいていませんでした。地方から出て来た人が旅館に泊まるのは普通ですからね。ところが、伊東さんが世田谷の奥に行った理由がわからない。われわれとしては、伊東さんがむざむざとあの現場に強制的に連れて行かれたとは思っていなかった。伊東さんは年齢《とし》はとっても柔道は講道館で四段という腕前でした」 「それで?」  暗い車の中での問答は続いた。 「それで、伊東中佐は誰かに騙《だま》されて世田谷の奥に行ったと判断したのです。もちろん、そこへ伴れて行った人間が、伊東さんを殺した犯人に違いありません。しかも、あれほど強い人がむざむざと絞殺されたのだから、これは不意をくらって後ろから紐をかけられたと想像されます。つまり、それだけ伊東さんは対手に油断していたわけです。ということは、伊東さんとその伴れの人物とが、よほど親しい仲だったということです」 「なるほど」  と筒井屋の主人元書記生門田源一郎はうなずいた。 「それで、すぐ、ぼくだと思ったのか?」 「いいえ。その人物があなただと推定するのに、相当長い時日がかかりました。実に長い時間でした」  対手も言葉を続けた。 「というのは、伊東さんがなぜ急に東京へ出てきたか、ぼくらにはわからなかったからです。あの人は上京すると、必ずぼくらのほうに連絡していました。この前だけ、それがなかった。われわれは、新聞記事で伊東さんが東京に来ていたことを初めて知ったくらいです……なにしろ、伊東さんは大和の郡山で雑貨商などをやっていますが、それは世間体だけで、あの人はまだ烈々たる愛国心に燃えて行動的だったのです。そのために、わざと戦後に復活した旧軍人の友好団体にも入らず、地方でひっそりと暮らしていたのです。あの人はわれわれの同志だったのですよ」  男はここでちょっと声を跡切らせた。窓に顔をよせて暗い中をのぞいている。 「続けなさい」  門田源一郎は催促した。男は顔を戻した。 「それで、伊東さんが何のために上京したかわからない。もちろん、伊東さんの上京とその不幸な死とに深い関係があることはわかります。ですから、われわれの調査は、もっぱら伊東さんが東京に出た目的を知ることから始まりました」 「われわれは、郡山の伊東家の養子に問合わせの手紙を出しましたが、養子からはよくわからないという返辞をもらいました」  と男は言葉を継いだ。 「ところが、伊東さんは殺される前に、田園調布と青山に行っていることがわかりました。われわれはこの二つの町に誰が住んでいるかと調べました。すると、田園調布には元R新聞社の編集局長だった滝良精氏の自宅があり、また青山南町には外務省欧亜局××課長村尾芳生氏の家があることがわかったのです。ここで第一段階の推定が得られました。村尾氏は当時の中立国公使館、あなたが書記生をしていた公使館の外交官補でした。また滝良精氏も、かつては大戦中R新聞社特派員としてその中立国の首都に駐在していました。ところが、ところがですよ」  と男の声は熱が入った。 「この公使館には、陸軍駐在武官として伊東中佐がいましたから、われわれは、これは何かあると思ったのです。われわれを不思議がらせたのは、東京に出てきた伊東さんがわれわれに連絡をとる暇もなく青山と田園調布とを走り廻っていたことです。よほど、びっくりした事実を発見したに違いありません。それは、まるで死んだ人に出遭ったようなあわて方でした」  相変わらず、門田源一郎の片腕は横の男に握られていた。話し手はもっぱら彼の頸を絞めていた右側の人物だった。暗いのでよくわからないが、この男の重い声には、どこか壮士風の口調があった。 「いや、これはたとえ話じゃありません。ということは、伊東さんはこの世で幽霊に出遭ったのです。寺の芳名帳に残っていたのは、その幽霊の筆跡だったのです……ここまで言うと、あとはくどくどと説明する必要はないでしょう。われわれは、伊東さんが田園調布と青山を訪ねたことで、上京の目的が、かつて駐在した国の公使館員に関連があるものと思いました。……そこには一等書記官で野上顕一郎という人が死亡しています。昭和十九年でした。この人は病《やまい》を得てスイスの病院に入り、そこで亡くなったことになっています。それは、ちゃんと当時の新聞にも報道されています。だが、伊東さんがびっくりして上京し、滝良精さんや村尾課長の家を走り廻ったのは、もしかすると、この野上一等書記官の生死を確かめようとしたのではないかと思ったのです。それ以外に考えようがないのです。……この想像に到達するまでには長い時間がかかりました。しかしですね、われわれはまだ門田書記生が、筒井屋の主人だという推定までには到達していなかったのです」  遠いところで電車の音がした。静かな夜だし、人家が少ないので、その響きがここまで伝わってくるのだが、電車通りまでには一キロ近くの距離があった。 「われわれは、野上顕一郎氏が生きているという想定を立てました。これ以外に伊東さんを東京に飛ばせ二軒を走り廻らせる理由がなかったからです。ところで、野上顕一郎氏の死は日本の新聞にも出ているように、立派に公電になっています。われわれは念のために野上家の様子も探りましたが、未亡人は本当に夫の死を疑っていないようです。だから、野上氏が生きて日本に帰ったとしても、未亡人や家族の者には連絡をとっていないことがわかりました。何故だろう。われわれは不思議に思うと同時に、いろいろ調査を始めました。その一つが、滝良精氏のところに事情を訊きに行ったことです。ところが滝氏は第一回にわれわれが訪れたあと、すぐに東京から離れて信州浅間温泉に逃げるように行ってしまいました。われわれは二度目にそこに押しかけました。滝氏は大へん動揺しました。あの人はまた急に浅間温泉を引き払って、蓼科高原に移ったのです。同じころ、滝氏は新聞社を辞めたのち就任していた世界文化交流連盟理事をも辞職したのです……滝氏のこの挙動はわれわれをかえって不思議がらせました。殊に、蓼科高原の宿で会ったとき、こちらがわざとハッタリをかけて、野上さんはどこにいますか、といきなり訊くと、滝氏は、初めあの人は死亡したのだと言いましたが、その言葉よりも、滝氏の恐怖に満ちた表情が雄弁に真実の答えをしていました」 「なるほど。あの人はインテリだが気の小さい人だった」 「そうです。だから、われわれはいよいよ積極的に彼を責めました。すると、やっと滝氏は、自分は知らないが野上氏の死亡が大へんに疑わしいことだけを言いました。何故なら、当時スイスの病院で氏の臨終に立会った日本人はひとりもいないからだと言いました。そこでわれわれは突っ込みました。もし野上氏の死亡が真実でなく、生きていながら死亡の公表がなされたという理由は何だろうかと……」 「滝氏は、どう答えた?」 「わからないといいましたよ。しかし、われわれは、すぐに野上氏が中立国公使館でどのような動きをしていたかを調べてみました。それには、われわれにそのルートがあったのです。すると、なんと、野上氏は日本の外交官として派遣されていながら、利敵行為をやっていたのです。日本が戦争をしているときですよ」 「………」 「その事実を知ったときのわれわれの憤慨と愕きとは言語に絶したといっていいでしょう。野上氏は当時スイスに駐在していたアメリカの戦略情報局の親玉や、イギリスの諜報部門と連絡をとって、日本をできるだけ早く敗戦に追い込むように企らんでいたのです。このことから想像すると、野上氏の死亡公表は、実は己れの国籍を消すためにした工作でした。われわれの想像するところによると、彼はスイスの病院から脱出して、イギリスに逃亡したと思われます。そこで連合国側と協議して、ひたすら日本敗北の策略を練っていたと思うのです。何しろ、当時のスイスは連合国側の情報網の巣になっていて、殊にアメリカ機関の親玉は、後にCIAの長官になったくらいの辣腕家《らつわんか》で、ルーズベルトの信頼は絶大でした。また、イギリスの諜報屋もウィンストン・チャーチルに直結していたのです。こんな連中の網にかかって、野上顕一郎氏は遂に日本を売るようになりました」 「それから?」  門田元書記生は沈痛な声を出した。 「これには日本政府の中に共犯者がいたのです。いくら野上書記官が優秀でも、ひとりで出来ることではない。政府の中に巣くっている親英米派と必ず気脈を通じていたと思うんです。日本の軍部が抗戦八年の余力を持ち、またそれに応《こた》えるだけの物資を抱えながら、むざむざと屈服したのは、こういう獅子身中の虫が策動したからです」 「しかし、そりゃア……」 「待って下さい。あなたは、野上氏の裏切行為にそれほど大きな効果はなかったといいたいのでしょう。たしかに、日本の敗戦という大きな事実の前に、野上氏の裏切行為がどれだけその手伝いになったか、その辺はわかりません。しかし、しかしですよ。日本の外交官たる者が、戦争中に敵国と共謀し、国籍まで消して、皇国を敗戦に導くように策動したことは、断じて許せません。われわれは絶対に許せませんよ」  男の声は激した。 「おそらく、伊東さんも野上書記官が死んだものと信じていたのでしょう。ところが、実は、それが擬装で、おめおめと生存していた。しかも、いま、日本に遊びに来ていることが判ったのです。こりゃ伊東さんでなくても、日本国民なら誰だって腹が立ちます。なにしろ、売国奴が今ごろになってこそこそと日本に舞い戻っているのですからね」  男の声は、暗い中でつづいた。 「伊東さんは、滝良精と、村尾芳生を、それぞれ自宅に訪ねている。いま、野上が生きて帰っているらしいが、どこにいるか、と詰問《きつもん》したに違いありません。ところが、二人とも、全然知らない、と言ってシラを切った。これは想像だが、確かだと思います。だが、伊東さんは、彼らの嘘にも拘らず、東京にいる野上の正体を嗅《か》ぎ当てたのです。それには、ここに一人の重大な人物がいたからです」 「………」 「野上は、当時の海軍側と結んでいました。海軍は初めから戦争には軟弱論でしたからね。従って、中立国に駐在している武官の中でも、伊東さんの陸軍派と海軍派とは、絶えず反目し合っていました。海軍派と結んだ野上は、その機関の秘密援助によって、スイスの病院から、イギリスあたりへ脱出したのですが、このときに、その脱出を助けたもう一人の人物がいたのです……門田さん、あなたですよ。書記生だったあなたが、たしかに、野上をスイスの病院まで見送ったはずです」 「………」 「伊東さんは、野上が生きていると知ったとき、はじめて門田書記生に対する不審が起こった。多分、伊東さんは、あなたを問い詰めて真相を究明したに違いありません。この火のような伊東さんの追及の前に、あなたも遂にシラを切ることが出来ず、一切を白状したと思います。それを聞いて、伊東さんはいよいよ激昂した。そして、すぐにでもおれを野上のところに伴れてゆけ、と言ったでしょう。伊東さんは、野上のところへ行き、この売国奴を刺し殺す決心だったのです……」  遠いところで音がした。車の中の二人の男は、窓に顔を寄せていた。何事もなかったというように、ふたたび傍の男の話がつづけられた。 「門田さん。あなたは、たしかに野上脱出の手伝いをしている。戦後になって帰国直後に外務省を辞めたのも、その暗い原因があったからです。さすがに、あんたはそのまま外務省に残ることが出来なかった……ところで、今の話のつづきを言うと、あんたは、野上の帰国にも必ず何か手伝いをしていたと思われる。おそらく、東京に滞在している野上の宿所を知っているのは、あんたと、滝と、村尾だけだったと思う。どうです、違いますか?」 「その通りだと考えてもいい」  門田が重い声で答えた。覚悟している声だった。 「だから、あんたは、激昂した伊東さんが野上にとって危険な人物だと考えた。いや、それだけでなく、もし、伊東さんが野上を刺してしまえば、当時の秘密事情が全部明るみに出てくる。あんたは伊東さんを殺そうと決心した」  暗い遠くのほうでヘッドライトが一つ走っていた。 「あんたは、多分、これから野上の宿舎に案内すると言って、伊東さんを伴れ出したと思う。それは、あの晩だった。一しょに宿を出ると、ほかの者に目立つと言って、多分、別々に旅館を出て、途中で落ち合ったことと思いますがね。それから、あんたは、伊東さんを世田谷の奥の現場に伴れ込んだ。今から想像すると、途中まではタクシーに乗ったと思われるが、現場からかなり離れたところで車から降りる。そして、そこまで歩いて行ったと思う。一つは、乗りもののことから足がつくのを恐れたのと、一つは、かなりの距離を歩くので、時間的にも夜がふけるのを計算に入れていたのです。伊東さんは、あんたをすっかり信用していた。だから、全然無防備だった。安心してあんたの横を歩いたのです。あんたは、あの現場近くまでくると、油断している伊東さんのうしろから襲いかかり、いきなり頸に紐を掛けたと思います。そら、すぐそこに、その現場が見えますよ」  男は車の窓を指した。遠くに人家の灯が見えた。それもひどく疎《まば》らだった。ほとんどが畑と雑木林の黒い影で蔽《おお》われている。 「尤《もつと》も、あんたがその犯人だと判るまでには相当苦労しましたよ。一番のきっかけは、伊東さんがなぜ世田谷の奥にのこのこと行ったかということでした。われわれは、当時、筒井屋の主人が門田元書記生と知らなかったものだから、対手の男がどうしても判らない。ところが、前に言ったように、われわれは伊東さんから、門田元書記生が東京にいるということだけは聞いていました。だから、その対手が多分門田であろうことは想像していたが、さて、彼がどこにいるか、さっぱり見当がつかない……あんたの郷里《くに》の佐賀にも人をやって調査させたが、あんたは外務省を辞めて実家にぶらぶらした直後、東京に出たそうですが、そこから死亡の噂を立てたそうですね。多分、この工作は、村尾芳生あたりがやったことと思います。これも国籍を消して逃げた野上顕一郎のやり方とどこか似ている。われわれはあらゆる条件を考えて、伊東さんが訪問した先が村尾と滝の二つの家でしかなかったことを頭に入れました。おかしいと思ったのは、この宿のことからですよ。不幸にして、われわれは門田元書記生の写真を一枚も持っていませんでした。だから、筒井屋の主人がそれだということは、最後の最後まで判らなかったのです」 「京都のホテルで村尾さんをピストルで狙撃したのは、君たちだったのか?」 「その通りです」 「ほう。何のために村尾さんを狙ったのだ?」 「そりゃあんたにもわかるでしょう。われわれは滝と村尾とが必ず何かを知っていると信じていた。ところが、滝は蓼科から逃げたまま、どこに行ったかわからない。あの男は、われわれにすっかり怯《おび》えていた。もう一人は村尾だが、この男もわれわれの前に一度顔を見せただけで、あとは外務省という組織の中に隠れてしまった。われわれとしては、彼に本音を吐かせなければならない。それには、威嚇《いかく》以外になかったのです。そのテが一番対手には効き目がありますからね。村尾が変名で京都のMホテルに泊まるのを、われわれの機関員が前日にキャッチしていたのです。なに、あの男なんか射とうと思えば、脳天ぐらいは命中させましたよ。しかし、彼を殺すのが目的ではなかった。威《おど》すだけでよかったのです」 「やっぱり、ぼくの思っていた通りだったな」 「そうでしょう? あんたは何もかも知っていた。その知ったついでに、ここで野上がどこにいるのか教えてくれませんか?」 「できないね」  門田元書記生は冷然と答えた。 「君たちが知ってる通り、野上さんとぼくとは、特別な関係があった。なるほど、野上さんは、君たちが想像したように病気ということになって、スイスから連合国の機関の中に入っていたが、これは、あくまでも日本の国民を不幸にしないための終戦工作だった……日本の敗戦は歴然として判っていたのだ。それをあくまでも無理|強《じ》いな戦争継続に持ってゆき、国民をいよいよ不幸にしたのは、伊東忠介中佐のような陸軍強硬派がいたからだ」 「すると、こちらの思った通り、あんたが野上を逃がすのに手伝いをしたわけだな」 「そう取ってもらっていいだろう。ぼくは野上さんと同じ意見だったからね。在外武官でも、海軍派の人とこっそり提携したのだ。また、君たちの言う獅子身中の虫である政府部内の高官との連絡は、この海軍側が暗号でやってくれていたのだ。もちろん、敵国逃亡が野上さん一人で出来る芸当ではない」  このとき、急に窓に明るい光が満ちてきた。  車が後ろに停まると、すぐライトを消した。  ドアの開く音がして人が歩いてくる靴音が聞こえた。不思議なことに、門田源一郎を挟んでいる人たちがこれに無警戒だったことだ。 「ご苦労」  とその男が外から声をかけた。懐中電灯の光が門田の顔を外から眩《まぶ》しく照らした。 「話は済んだのか?」  新しい男が訊いた。 「大体すみました」  門田の横にいて、しゃべり続けた男が答えた。と同時に、門田の手を把《と》っていた別な男が、自分の席を新しい男に与えるために車を下りた。  車が揺れて、外からの男が乗り込んできた。暗いのでその顔は分からない。彼の太い腕が門田源一郎の手を掴んだ。 「旦那、ご苦労でしたね」  その男が言った。 「やっぱり、お前だったのか?」  門田は暗い中で対手の顔をのぞいた。 「旦那もこのごろになって気づいていたようだな。いつまでも宿の下男の栄吉でもあるまいから、本名を名乗らせてもらおう。国威復権会の総務|武井《たけい》承久《じようきゆう》という者だ。ついでながら幹部の名前を言うと、会長が岡野《おかの》晋一《しんいち》、副会長が杉島《すぎしま》豊造《とよぞう》。憶えておいてもらおう。尤も、あんたの頭脳が、あとどのくらい活動できるかわからないがね」 「覚悟はしている。いつかはこうなると思っていた」 「いい度胸だ。……おい、野上の居所はわかったかい?」  これは仲間に訊ねた言葉だ。 「まだ、ドロを吐きません」 「そうか。ところで門田君、君は人殺しの犯人だ。われわれの同志、伊東忠介さんをこの現場で殺した男だ。われわれとしては、君を警察に出すわけにはいかぬ……」 「殺すのだな?」 「人殺しは法律でも死刑ということになっている。どうせ死ぬのだ。われわれの手でそれをやりたい……こう話が決まってからは、君も今さら野上の行方を割らないだろう?」 「言えないな」 「ここで、君を助けてやるからというような甘い誘い方はしない。また拷問もかけない。われわれとしては、紳士的に君の最後の自発的な答えを待つだけだ」  門田源一郎は黙っていた。言葉が出ない代りに、彼の荒い呼吸《いき》がパイプを洩れるガスのように、すうすうと聞こえはじめた。 「答えは何もない」  門田源一郎の声がはじめて喘《あえ》いでいた。 「本当に白状できないのだな?」  武井承久は確かめた。 「言えない」  この返辞も長い沈黙のあとだった。いや、長く感じられたのは、門田も、拉致者《らちしや》の側も同じだった。実際は、七、八秒くらいの時間だった。 「もう一度、念を押す。野上顕一郎はどこにいる? あの男は日本に必ず変名で来ているのだ。日本国籍のない男だから、もしかすると、外国人として入っているかもしれない。その可能性が強いのだ。門田君。彼は何という名前の外国人になって日本に来ているのだ。そして、どこに滞在しているのだ?」  門田源一郎が最後の返答を口から吐いた。 「知らない!」 「立派だ」  首領はほめた。 「立派な覚悟だと言っておこう。しかし、われわれは君を許せない。君は伊東さんを殺した男だ」 「止むを得なかったのだ」  門田は苦痛そうに吐《は》いた。 「そうか……君も、いま、この現場に来てすでにわれわれの決意がわかっているだろう?……君をここで殺す。伊東さんの霊の永眠《ねむ》っている此処で、君の生命を絶つ」  門田源一郎の息が、暗い車の中で、人間の呼吸とは思えない異様な音《ね》をたてた。  すると、それは次の激しい音に変わった。子供がふざけて三、四人で暴れているような物音だった。──声はなかった。      24  車は横浜の市内に入った。天気がいいせいか、歩道に人が多い。が、東京からみると車の数が少ないので、ずっと落ち着くのだ。 「ニューグランドは、久しぶりですわ」  久美子が添田の横から言った。今日は食事に誘うというので、いくぶん派手なよそおいになっていた。  ──急な話だった。添田が今日のことを言い出したのは、昨夜、久美子の家に来てからである。日曜日でもなかったが、添田の都合で、ぜひ今日横浜に遊びにゆきたい、と申し込んだのである。勤めを持っている久美子は迷ったが、いつに似合わず、控え目な添田が今度は強引だった。 「ぼくの勝手ですが、明日のほうがいいんです。先に延ばしたくないんですが」  孝子は傍から笑って、久美子をとりなした。 「せっかく、添田さんがああおっしゃるんですから、あなた、ご一しょしたらどう?」 「ええ。でも、勤め先にそう断わってないんですの」 「そいじゃ、明日の朝、電話で一日だけお休みを戴くようにお願いしたらどう。あなたは、まだ休暇が残ってるでしょう?」 「ええ」 「突然で申し訳ないですが、ぜひ、明日休んでいただきたいんです」  添田は熱心に希望を押しつけた。 「ニューグランドで食事をして、ずっとあの辺を歩いてみたいんです」 「珍しいわ。添田さんがそんなことをおっしゃるなんて」  孝子は笑った。 「ぜひ、お供なさいよ」  孝子は添田をすでに他人とは考えていなかった。添田はこれまで久美子と二人だけで外に出たことはめったにない。そういう点では添田は奇妙なくらい遠慮勝ちだった。その彼が今度だけは不思議と自分の言葉に強いのである。  久美子は同意した。 「お母さまもお誘いしたら?」  と彼女が添田に言うと、 「いいえ、わたくしはいいのよ。恰度、明日はほかに出かけなければならない用事がありますから。あなたがた二人で行ってらっしゃい」  孝子は微笑していた。  いつもの添田だったら、当然、久美子の言葉につづいて孝子を誘うはずだった。それが今度は添田も黙っている。  添田は、実際は孝子を一しょに伴れてゆきたかった。心の中ではどれだけ彼女を横浜に運びたかったことか。  そのことが不可能なのには二つの理由があった。  一つは、もし、孝子を伴れてゆけば、対手が自分たちの眼の前に現われないかもしれないという懸念だった。  もう一つは、これは結果的に、孝子にとって残酷な仕打ちとなることだった。  車に乗っているいまも、この迷いは昨夜からつづいて添田の心を動揺させている。久美子だけは、光の溢《あふ》れている海の一部がのぞく方へ愉《たの》しげな眼を向けていた。 「もう先《せん》、お母さまと節子お姉さまとで、ニューグランドに来たことがありますの。五年ぐらい前になるかしら」  久美子は、明るい気持で話した。 「それからずっと行っていないんですの。あれから変わってますかしら?」 「そう変わってないでしょう。建物は前のままですから」 「食事の間に、始終、音楽が鳴ってましたわ。背の高い人がチェロを弾いていましたの。その音色がとても素敵で、まだそのときの曲目を憶えているんです」 「ああいうところの楽団は、始終、入れ替えていますから、むろん、今度は別な人でしょう」 「愉しみだわ」  車は山下公園の横にかかった。広い通りの片側が公園の人工的な松林になっていて、反対側にホテルの高い建物が同じような建築物と列をつくっている。  晩秋の陽が建物の影を、柔らかだが、くっきりと地面に投げかけていた。  添田は、ニューグランドホテルの玄関先に車を着けさせた。白い階段にも陽射しが溜まっている。今日の久美子は枯葉色のワンピースだったが、いつもはつけたことのない真珠《パール》の頸飾《ネツクレス》をかけていた。陽の当たる肩の部分が服の色を冴えて見せていた。  ホテルの中に入ると、急に外の光線が遮断されて、大きなシャンデリヤの灯に代っていた。ここのフロントは中二階になっている。  添田はちょっとためらったが、 「すみませんが」  と久美子に言った。 「ちょっと待ってて下さい」  エレベーターの客が降りるすぐ前だった。 「ぼく、ちょっとフロントに訊くことがあります」  久美子はうなずいて、その場に佇《たたず》んだ。若い外国人夫婦が二組、久美子の前を通り過ぎた。  添田はフロントに歩いた。 「ちょっと伺いますが」  中年の係員が肘《ひじ》を曲げてお辞儀をした。 「ここに、フランス人でヴァンネードさんという人が泊まっていませんか?」  係員は添田の顔を下からすくい上げるように見た。 「どちらさまでしょうか?」  添田は急に返辞が出来なかった。自分の名前を正直に告げても、面会の相手に通じることではなかった。不用意だが、ここに来てそれと気づいたのだ。むろん、新聞社の名前を言うわけにもいかなかった。これは対手から絶対に拒絶されるだけである。  添田が口ごもっていると、係員のほうから意外なことを言い出した。 「失礼ですが、添田さまとおっしゃいませんでしょうか?」  これには彼のほうが、あっと声が出そうになった。  唖然としていると、係員は、 「それなら、メッセージをお預りしています」  と机の上に手を伸ばして、小さな封筒を差し出した。  添田は裏を返して見たが、名前はついていなかった。封を開けると、二つに折りたたんだメモが出てきた。 [#ここから1字下げ] ≪ヴァンネード氏を訪ねて来るのだったら、その前に、ぼくが君に話したいことがあります。416号室がぼくの部屋だから、ご足労ねがいたい。但し、君一人でこられることを希望します。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]滝≫   (滝良精!)  添田は、眼をこの達筆な万年筆の文字に密着させた。 (滝が出てきた)  不意だが、滝は添田がここに来ることを予期していたのだ。むろん、滝の神通力のせいではない。かげで村尾芳生が滝に連絡をとっていたのだ。すると、添田の眼には、伊豆の船原温泉の宿で身体を横たえている村尾の姿が泛んできた。 (横浜のニューグランドホテルに行ってみることだね)  伊豆の宿から滝良精に、予測される添田の行動が伝達されたのだ。 「ヴァンネードさんは」  と添田はメモをポケットに蔵《しま》って係員に顔を向けた。 「今、ここに泊まっているんですか?」 「はい、お泊まりになっています。しかし、ご夫妻とも、一時間前にお出かけになりました」 「どちらへ?」 「さあ、手前どもには何もおっしゃいませんでしたから、行先はちょっと判りかねますが……」  添田彰一は、久美子の佇んでいるところに戻った。 「ここに、ぼくの知った人が来てるんです。今、フロントにゆくと、伝言がありました。すみませんが、ちょっと、その男に会ってきますから、ここで待っていていただけませんか?」  滝良精のメッセージは添田ひとりに遇うことを望んでいる。この意味は滝の口から何が話されるかわからないことだ。当然、久美子を滝の部屋に伴れてゆけなかった。また滝のこの指示は久美子が一しょに此処に来ていることを承知の上でしているのだ。  久美子は素直にうなずいた。 「では、ごゆっくりしてらっしゃいませよ。わたくし、その間、階下《した》に降りて、ウィンドウでものぞいていますわ」  このホテルは、階下にいろいろな商品を並べている。主に外人客相手のスーヴニールだったから、きれいだし、陳列ケースの間を歩いて眺めても愉しめた。 「すみません。すぐ戻ります」  添田は久美子を階段の降り口まで見送った。彼女はワンピースの裾をゆるやかに翻《ひるがえ》しながら、すんなりとした脚を一歩々々下に運んで降りた。いかにも明るい姿だった。  添田はエレベーターに乗った。四階で降りて416号室の前に立ったとき、さすがに動悸が早鳴りした。添田は息を吸いこんでドアをノックした。  内側から低い応答があった。添田はドアの把手を廻した。  思いがけないことだったが、すぐ真正面に滝良精が立っていた。ノックを聞いて、ここまで迎えに出たのだろうが、これが、いきなり、対決の恰好になった。 「お邪魔します」  添田が敬礼すると、窓を背にしている加減で滝の顔は黒かったが、その逆光の中にも、これまでにない彼の表情を見ることが出来た。滝はあきらかに微笑しているのだった。 「いらっしゃい」  声まで柔らかだった。 「君が来るのを待ってたんだよ」  添田に返辞を与えさせなかった。すぐに窓際の応接椅子に添田を坐らせた。 「久美子さんは?」  いきなり、滝はそう訊いた。何もかも知っている訊き方だった。添田の予想に誤りはない。滝は確実に村尾芳生からの連絡を受けていたのだった。 「いっしょに来ています」 「うむ。それで?」 「階下《した》で待ってもらっていますが」  それにはちょっとうなずいて、 「君、ヴァンネードさんは、いま居ないよ」  いきなり告げて添田の顔をじっと見た。  ヴァンネード。──  添田は滝の動かない瞳を受け止めていた。五、六秒の沈黙があった。 「知っています。フロントでそう聞きましたから。どこにゆかれたのですか?」 「散歩だ」 「散歩?」  滝がそれに答えようとしたとき、軽いノックが聞こえて、メイドが茶を運んで入った。客が来たのでサービスしてくれるのである。二人はばらばらにメイドの手許を眺めていた。自然と柔らかい眼差しになった。茶は透明なまでに新鮮な黄色を見せている。底に粉のような茶が揺れながら沈んでいた。  滝良精が顔を上げたのはメイドがドアの向うに消えてからだったが、視線は柔らかいものになっていた。 「添田君」  滝は後輩に呼びかけた。 「君には、もう、わかってるだろうな、ヴァンネードさんが誰かということが?」  一瞬添田の頸から背筋にかけて熱いものが走った。 「やっと知りました」  添田は全身を硬直させていた。 「そうだろう。もう、ぼくも匿さない。ヴァンネードさんは、あの人だ」  滝が|あの人《ヽヽヽ》と言ったとき、彼の唇が微《かす》かに痙攣《けいれん》したようにみえた。そういえば、彼のたるんだ眼のふちも震えたようだった。 「長いこと、君もそれを知ろうとして苦労したね」  と滝は言った。 「ぼくは君がそれを知ろうとする努力を妨害してきた。それは、そうしなければならなかったからだ。今でも、君が新聞記者の資格だったら、ぼくはあくまでも君の前に立ち塞がるだろう。しかし、ぼくは最近になって君が久美子さんの将来の夫だということを知った。……ぼくは、記者としての君にではなく、野上家の家族になる君にすべてを打ち明けるよ」  添田は生唾《なまつば》を呑んだ。額に汗がふいて来そうだった。頭がぼんやりと霞《かす》んでくるように思われる。添田は両手を握りしめて、自分の脚から力が脱けるのに耐えた。 「念のために訊くが、君がここに|あの人《ヽヽヽ》を訪ねて来るとは孝子さんには言ってないだろうね?」 「言ってありません」 「そう」  滝は背中を椅子に倒してうなだれた。そのことでは滝にも苦悩があるのだ。 「久美子さんには、どう言ってある?」 「横浜に遊びにゆくからと言ってついて来てもらいました。まだ、ヴァンネードさんの名前は出していません」 「そう」  滝は、その処置でいいというように背中を起こした。弱々しかった眼に、少し強い光が滲《にじ》み出た。 「添田君、|あの人《ヽヽヽ》は、今、観音崎《かんのんざき》に行っているよ」 「観音崎?」 「浦賀《うらが》の先だ。たった三十分前だから、今から行っても十分に会えるだろう」 「何のために、そんなところに行かれたのですか?」 「だから散歩だと言っている。目的はない。強《し》いて言えば、日本の最後の一日を、日本らしい風景の中に立って過ごしたいというんだろうね」 「最後の一日ですって?」  添田が腰を浮かしそうになった。 「添田君。|あの人《ヽヽヽ》は、明日のエールフランス機で日本を離れることになっている」 「滝さん」  添田は身体が震えた。 「いや、添田君。話はあとにしよう。久美子さんを早く観音崎にやることだね。ぐずぐずできない。|あの人《ヽヽヽ》も海を見ながら娘の来るのを待ってるかもしれないからね……」  添田が椅子から無意識に起ち上がったとき、滝良精が強い眼で下から凝視した。 「君、|あの人《ヽヽヽ》は奥さんも一しょだよ」  久美子は階下の店を見て廻っていた。添田が降りてきたとき、彼女はちょうど陳列ケースの中に白く光っている真珠をのぞいているところだった。  添田の跫音を聞いて彼女は眼を贅沢な商品からはなした。ここは昼間でも電灯を点けているのだが、添田を見た瞬間の顔が急に灯のように明るくなった。退屈そうにしていた姿勢が生々となった。 「お済みになりまして?」  首を少し傾《かし》げて微笑《ほほえ》んだ。  添田は久美子の顔を正面から見るのが苦痛だった。自然と伏目になった。添田の視線にはケースの中の頸飾《ネツクレス》が入った。 「話がまだつづいているんです」  辺《あた》りに客がいなかった。昼間のホテルのスーヴニール店は閑散としている。女店員が椅子に坐って、本を読んでいた。 「ぼく、ここに泊まっている知人と偶然に会ったものだから、少し話さなければならなくなりました」 「あら、それじゃ、もっとお待ちしますわ」 「いえ、長引くんです。一、二時間ぐらいはかかるでしょう」 「まあ、そんなに?」 「すみません……その間、待っていただきたいんです。しかし、こんなところでは退屈でしょうから、この横浜の先に観音崎というところがあります。浦賀の少し先なんです。景色がいいことはぼくも聞いていたんですが、自動車だと三、四十分くらいで行けそうです。そこをご覧になっていたらどうです?」  久美子は気がすすまないふうだった。 「ぼくもご一しょすればいいんですが、話が長くなりそうなんです……こうしましょう。久美子さんは先にそこに行ってて下さい。ぼく、話が済み次第にあとから追っかけて行きます」 「でも」  久美子はうつ向いた。 「わたくし、ひとりで……」 「なに、ちっとも心細くないですよ。大勢行っていますからね。きょうは秋晴れのいい天気だし、人が多いということです」 「わたくし、やっぱりここでお待ちしますわ。添田さん、わたくしにご遠慮なくお話を済ませて下さいな」  久美子は知らない土地に行くのを拒《こば》んだ。 「しかし、そりゃ大へんですよ。ぼくの話は二時間はたっぷりかかりそうです。あなたに待っていただくと、ぼくのほうが気になってしまいます」 「そう」  久美子はそれでやっとうなずいた。 「わたくしのことはお気になさらなくともいいんですけれど。でも、それでは添田さん、お話が落ちつきませんわね」 「そうなんです。第一、このホテルだと待っている場所だってありませんよ。それに、久美子さんがその土地に行っているとわかれば、ぼくだって話を早く切り上げて、あとから追いつくという愉しみもありますから」 「どう行けばいいんでしょう?」  久美子は決心がついた。 「ホテルの前でタクシーを停めます。この辺の運転手ならよく知ってますから」 「そこには何がありますの?」 「灯台です。三浦《みうら》半島の東突端に当たるでしょうね。ちょうど油壺《あぶらつぼ》あたりの反対側になります。すぐ前が千葉県です。ほら、まるい東京湾が南のほうで括《くく》られたようにすぼんでいるでしょう。その一番狭くなっている海が浦賀水道というんですが、景色がいいんだそうです……実は、横浜にお誘いしたのも、そこにも行ってみるつもりでいたんです」 「わかりました。あとできっといらして下さいますね」 「むろんですよ。済みません。そのつもりでこのホテルに入ったんじゃないのですが、偶然、知った人と出会ったばかりにこんな結果になりました。そうだ。食事も向うで済ませて、帰りの夕食をこのホテルで、ということにしましょうか?」 「ええ」  添田は彼女の横に並びながら、よほどフランス人がその場所にいることを彼女に説明しようかと思った。久美子の知らない人物ではない。京都の寺とホテルで、彼女が接触したことのあるフランス人なのだ。  しかし、その事実を添田が知っていることを彼女にどう説明できるか。彼は久美子が観音崎につくまで、ヴァンネード夫妻がそこにとどまっていることを祈るよりほかなかった。  ホテルのドアマンが通りがかりのタクシーに手を上げてくれた。久美子は、元気に車に入った。ドアマンは添田があとから乗り込むものと思って、開いたドアを支えたままでいる。 「観音崎までだが」  と添田は外から運転手に言った。 「道はわかっているだろうね?」 「よく知っています」  運転手はハンドルに手をかけて答えた。 「そこに行くには、道がいくつもあるのかね?」 「いいえ、一本道ですよ。だんな」 「場所は広いかね?」  これは久美子が到着しても、ヴァンネード夫婦が他所《よそ》に行っていれば、眼に触れない惧《おそ》れがあるからだった。 「広くありません。海岸ですからね。それにコースが決まっているんです。遊ぶところがほとんど同じですよ」  添田は安心した。 「行ってらっしゃい」  添田は手を挙げた。 「なるべく早く行きます」 「お待ちしてますわ」  久美子が自分の顔の前で小さく手を振った。  自動車が白い道路を走り去って行く。後ろ窓に久美子の顔が振りむいていた。  添田はホテルの階段に引き返した。急にじっとしていられない気持で、行動も性急になっていた。エレベーターに乗ったときも無意識に行動が粗暴になっていた。先に乗っていた外人が添田を睨んだ。 「ここで拝見していたよ」  滝良精が部屋に再び添田を迎えて、最初に言った言葉だった。 「久美子さんの車がこの建物の陰で見えなくなるまでね」 「間に合うでしょうか?」  添田は自分の祈りを対手に確かめた。 「大丈夫だろう」  滝はパイプに煙草を詰めた。空から射す秋の光線の中に滝の白い髪が光っている。その半分を斜めに影が区切っている。 「あの人だって娘が来ることを予期しているからね。それは気を付けて見ているだろう」  滝は俯向《うつむ》いてライターを鳴らした。滝の重厚な様子が添田にもその安堵を伝達した。 「ぼく、久美子さんに何も言えませんでした」 「それでいいのだ」  滝はすぐ答えた。 「余計なことを言わぬがいい。そりゃ、父娘《おやこ》ですぐわかることだ。あの人には娘に逢ったときの覚悟もあるだろう」  窓で衰えた蠅《はえ》が翅《はね》を動かさずにうずくまっていた。 「奥さんがいっしょのはずですが」  添田が心配して言った。 「大丈夫だ」  と滝は、これにも安心させた。 「あの奥さんなら大丈夫だ。フランス人だが日本婦人のようなひとだ」 「添田君」  滝はパイプをくゆらせた。いかにも久美子のことは|向うに《ヽヽヽ》任せたといった様子だった。自然と表情にも声にも一段と落着きが出ていた。  動作もそうだ。静かに指先で新しい煙草をパイプに詰めている。 「村尾君に会って、彼から大体のことを聞いたそうだね」  ちらりと眼を上げた。 「はあ。しかし、全部ではありません」 「結構だ。全部を知る必要はない。君の想像だけでいいのだ」 「ぼくの想像で間違っていませんか?」 「いないだろう」  滝はあっさりと認めた。 「しかし、わからないことが一ぱいあります。まず、野上顕一郎さんが日本に帰ってきたことです。いいえ、その気持はわかります。戦後十六年|経《た》っています。正確に言うと、野上さんが戸籍を喪失してから十七年です。故国の土を踏みたかったに違いありません。むろん、よそながら自分の遺族《ヽヽ》に対面したかったと思います。出来れば、遺族に自分の存在を知られることなく会いたかったに違いないでしょう」  滝は返辞をしなかった。しかし、顔ではそれを肯定していた。 「ぼくの想像を許して下さい……野上さんは日本に帰ってくるにつけても、少なくとも旧《ふる》い友人二人には連絡をとったと思います、一人は村尾さんです。かつての部下ですからね。一人は滝さん、あなたでした」 「うむ」  滝は視線を窓に逸《そ》らした。秋の蠅は元の位置に這《は》いつくばっている。 「あなたは日本の大新聞社の特派員としてスイスにおられました。野上さんが死亡したのもその土地の病院でした。おそらく、野上書記官の死亡の公電は、村尾芳生氏がいた公使館から打たれたでしょう。しかし、もう一人プレスマンの協力があった。それがあなたです」  添田は、パイプを咥《くわ》えている滝に真直ぐ眼を当てていた。 「野上さんの意志は、この旧い友人を通して遺族との接触を図りたかった。少なくとも、その便宜をつけてもらうつもりがあったと思います。もちろん、友情を信じての上のことですがね。ところが、思わぬ障害が出てきた。かつての陸軍武官伊東忠介中佐です。野上さんが不用意にも昔を懐かしんで歩いた寺に筆跡を遺してきたためです。いや、野上さんのこの気持もわからなくはありません。おそらく若いときから歩いてきた日本の古い寺が、これで見納めだという気持があったのでしょう。そこで、せめて自分の名前を芳名帳に遺しておきたかった。そりゃよくわかるんです……だが、これが野上さんの災《わざわ》いになった。災いといってもふた通りです。一つは、姪《めい》の芦村節子さんに発見されて疑惑を持たれたことです。しかし、もっと悪いことがあった。伊東さんがそれに気づいてすぐに上京したことです……ぼくは村尾さんから聞いて初めてそれを知りましたが、伊東中佐は日本の勝利を最後まで信じていたそうですね。だから、もし野上さんが生きているとすれば、許しておけない売国奴というわけです。伊東中佐には、野上さんの死亡公表と、その生存と二つ並べて、その真の姿がわかってきたに違いありません。伊東さんだってその公使館付武官として、さんざん、当時の各国間の謀略を見てきていますからね……だから、伊東さんは上京すると、すぐに村尾さんやあなたの家に廻っています。おそらく、野上さんの生存をあなた方に念を押しに来たと思いますが」  これにも滝は否定しなかった。微かに、そしてゆっくりと顎を引いた。 「野上さんの“死亡”の真相は、調査してまわるうち、ぼくにも想像がつきました。ただ、ぼくにわからないというのは、この伊東中佐が、なぜ、世田谷の奥の淋しいところで殺されたかということです。知りたいのは、その原因と、誰が伊東中佐の頸を絞めたかということです。いいえ、ぼくは警視庁と同じ立場に立ってその犯人を捜してるわけじゃありません。犯人が逃げていても、逮捕されていても、それはぼくに関係のないことです。知りたいのは、伊東中佐に手を加えた人の名前です……伊東中佐を消してしまう立場にある人は、少なくとも三人はいます。一人は村尾さんです。一人はヴァンネードになってしまった野上さんです。一人はあなたです。しかし三人が犯人とは考えられない。もう一人いる。そのもう一人が誰かということです。滝さん。あなたならそれを知っているはずです」 「添田君」  滝はパイプを口から離した。沈んだ眼に奇異な光が滲み出た。添田はその眼付の変化にぎょっとなった。 「その犯人は死んだよ」  添田にはその言葉がすぐに理解出来なかった。全く別な意味を滝が言ったように取った。自然と眼を剥《む》いて話し手を見つめた。 「伊東忠介中佐を殺した男は、またほかの人間に殺された。しかも、その現場は、伊東君が命を落としたところだ」  今度ははっきりと添田の耳に言葉が入った。 「何ですって? も、もう一度おっしゃって下さい」 「死体の発見は、今朝の明け方だった。むろん、新聞には出ていない。今日の夕刊かもしれないね。しかし、ぼくには連絡があった」 「犯人が殺されたんですって? だ、だれです? いいえ、殺された男です」 「門田源一郎という男だ。君も当時の公使館の名簿を調べていたから、知っている名前だ」 「書記生!」  添田は叫んだ。 「そうだ、門田書記生だ」  添田は頭が痺《しび》れたようになった。たしかに、それは行方不明になっている人物だった。一度は郷里での死亡を伝えられたが、調べてみると、彼は失踪している。 「現在は名前が変わっている。筒井源三郎だ。商売も違う。品川の駅前で、筒井屋という旅館をやっている」  添田は混乱の中に突き落とされた。──眼の前を眉毛の濃い、顴骨《かんこつ》の出た人物がどういうわけかゆっくりとよぎった。淋しい貧弱な旅館の一間で話を交した男だった。 「途中の順序は、この際だから省略しよう」  と滝は言った。 「要するに、門田は野上さんの腹心だったし、野上さんの“死亡”を手伝った男だ……当時のスイスには、連合国側の情報活動の機関が設置されていた。野上さんは、日本が破壊される前に終戦に持ってゆくため、この機関と接触した。いや、見方によれば、その機関の手に野上さんが引っかかったと言うかもしれないが、断じてそんなことはない。ぼくが証明する」 「わかりました。あなたが野上さんの意志を受けて、その機関への橋渡しをしましたね?」  添田は、この先輩記者が英語に堪能《かんのう》であり、永い間在外特派員として極めて優秀だったことを思い出した。 「そう想像してくれて構わないだろう。ぼくはスイスにいる間、アメリカの諜報機関のお偉方とゴルフをしていた」 「アレン・ダレス?」  あまりにも有名なアメリカ大統領直属のCIA長官の名前が添田の口をついて出た。たしかに、この高名な情報工作の最高責任者は、戦時にはスイスに居据わっていたはずだ。 「そういう名前かもしれない。しかし、添田君。名前はどっちでもいいのだ。ウィンストン・チャーチルだって構わない。要するに、野上さんの気持は、国籍を捨て、妻子を捨て、己れの日本人たることをも喪失してまで、日本を破滅の一歩手前から救いたかったのだ。見方によっては、獅子身中の虫とも言えよう。連合国側は彼の接触を受け入れた。なにしろ日本がどこまで抗戦するか見当がつかなかったからね。連合国側としても出来るだけ損害を少なくして対日作戦を終結したかった。野上さんの行動は、旧い日本精神では解釈出来ない。こりゃア後世の批評に俟《ま》つほかはないね」  滝は肘掛《ひじかけ》に疲れたように身体を傾けた。 「伊東中佐は、野上さんの生存を確かめるために気違いのようになった」  と滝良精は、ときどき、額を指で揉《も》みながらつづけた。 「彼は、かつての公使館時代の同僚である書記生の門田君が品川駅前で筒井屋という旅館をやっていることを知っていた。これはぼくらも知っていたことだ。……だから、伊東は門田君の家に泊まって、しきりと野上さんの死亡前後の状態を訊いたと思う。なにしろ、門田君は野上さんに付き添ってスイスの病院に行ってるからね。これはぼくの想像というよりも門田君が昨日手紙を寄越してすっかり告白したことだ。恐らく彼が殺される直前の投函だろうね。……伊東中佐は、公使館時代から日本精神に狂信的な男だった。のみならず、彼は未だに日本陸軍の再興を信じている。いや、笑いごとじゃない。そういう連中がまだ日本にはいるのだ。伊東君は門田君を問い詰めて行った。われわれは適当に伊東君を追い返したが、なにしろ、門田君は最後まで野上さんを看取《みと》っていたというので、その追及も激しかった。門田君の話だと、伊東は奈良の寺から切り取ってきた芳名帳を門田君に突き付けたそうだ。野上さんの筆跡は、誰も真似することの出来ない特異なものだ。二人の間に、一晩中、密《ひそ》かだが激しい問答があった。遂に、門田君は伊東の詰問に答えられなくなった。このとき初めて、門田君は伊東君に対して殺意を持ったそうだ。この男がいま日本に来ている野上さんの所在を突き止めたら、どんなことになるかわからないと思ってね」 「世田谷の奥に伴れて行ったのは、門田さんですか?」 「そうだ。野上さんの隠れ家《が》に案内すると言って、夜、タクシーを何度も替えて現場近くに行った。近いといっても、あとで足がつくことを惧《おそ》れ、相当の距離を徒歩で歩いたそうだ。幸い、伊東君は東京に不案内な男だ。興奮してる彼は、何の疑念もはさまずに門田君の横に並んで、あの現場まで来たそうだよ」 「そうですか」  添田は全身の力が脱けた。 「では、その門田さんを殺したのは?」 「ある組織だ。こういういい方しかぼくにはできない。その組織は、狂信的な伊東元中佐につながってる線だった。門田君が伊東を消したのは、もし、野上さんの生存が確実になった場合、この行動的な連中の動きを怖れたからだ。理屈のわかる対手ではない。いわゆる問答無用組織だからね」 「滝さんもその連中の訪問を受けましたね?」 「受けた」  滝は自然に答えた。 「あれは、伊東中佐が殺されたことで、その組織の連中がしきりと嗅《か》ぎ廻りはじめたからだ。殊に、久美子さんのデッサンをとっていた笹島画伯が過失死を遂げてから、ぼくは余計に逃避したかった」 「画伯は過失死ですか」 「はっきりと睡眠薬の飲み過ぎと言っておこう。しかし、当時のぼくはそうは取らなかった。やはり組織が画伯を殺したものと信じた。理由はある。画伯が久美子さんをモデルにしてデッサンしてる間、彼女の父親がそこに同居していたからね」 「同居?」 「と言っては少し間違ってるかもしれないが、要するに、通いの庭男として自分の娘をよそながら見つづけていたのだ。こりゃ村尾君の発案でね。画伯と親しくしていたぼくが画伯に久美子さんのことを頼んだ。その間、事情を知らないままに画伯はぼくの頼みを引き受けて、通いのばあやも断わっていた。お蔭で野上さんはゆっくりと、自分の娘に対面することが出来た。画伯のデッサンも、あとで野上さんが貰って、外国に帰るつもりにしていた。ところが、画伯の不慮の死が突然やって来た。野上さんの予期しないことさ。野上さんは狼狽したに違いない。ぐずぐずして自分が日本の警察に調べられる立場になってはならないのだ。咄嗟《とつさ》に久美子さんのデッサンを持って遁げた」 「山本千代子の名前で、久美子さんを京都に呼び寄せたのは?」  添田はすぐ訊いた。 「それは野上さんの、現在の奥さんがやったことだ。野上さんの気持を察してのことだった。野上さんはあとで聞いたらしい。そうだ、そういえば、いつか、歌舞伎座でも野上さんは自分の遺族……生きながらの遺族さ、妻と娘を見ている。だが、僅かな偸《ぬす》み見《み》だけでは満足出来なかった。笹島画伯への工作も、久美子さんを長い間見つめたかったからなのだ。毎日毎日ね。だが、本当は、娘と話をしたかったのは言うまでもない」 「わかります」  添田はうなずいた。 「野上さんの奥さんはフランス人だが、よく出来た人だ。理解もある。教養もある。野上さんの立場をすっかり自分の気持の中に溶け込ませている婦人だ。山本千代子の手紙は、町のタイプ屋に打たせたんだそうだ。原稿は通訳の人に頼んで書いてもらったという。あとは娘が来るのをひたすら待っていた……ところが、久美子さんは一人ではこなかった。妙な付添いがその背後《うしろ》でうろうろしていた。これで父娘《おやこ》の対面はおじゃんさ」 「そうでしたか」  添田は溜息《ためいき》をついた。 「しかし、まだチャンスは残されていた。久美子さんが苔寺へ廻った。落胆《らくたん》した野上さんはMホテルに一人で帰ったが、奥さんだけは偶然に苔寺に来ていた。そこで久美子さんを、つまり、自分たちが南禅寺に呼び寄せた久美子さんをもう一度見たのだ。訳を言うと、南禅寺では、ヴァンネード夫妻はほかの外人観光客に紛れてこっそりと行ったらしいがね。夫人は苔寺で久美子さんの写真を撮影することに成功した。これは何よりの土産だった」 「Mホテルでは?」 「これは思いがけないことだった。まさか、久美子さんがそのホテルに泊まろうとはね……実を言うと、ぼくらはMホテルで野上さんと久しぶりに会う約束になっていた。村尾君も東京からこっそりと飛行機で行ったはずだ。ぼくも蓼科から中央線に乗って名古屋廻りで京都に入った。人間、いろいろな運命の糸が或る時期には奇妙に集まるものだ。まず、ホテルに久美子さんが泊まってることを知ったのは夫人のほうだった。夫人の知らせで野上さんは娘の声が聞きたくなった。何度も久美子さんの部屋に電話をした」 「わかりました。そりゃ久美子さんからも聞いています。しかし、間違いをよそおって、失礼いたしましたと言って切ったそうです」 「野上さんは娘に話しかける言葉がなかったのだ。君、どういうふうに話すかね? まさか、見ず知らずの男が天気の挨拶でもあるまい。野上さんは電話を二、三度かけて、久美子さんが、もしもし、もしもし、という声だけを聞いて満足しなければならなかった。もっとも、その前に通訳を通して晩餐《ばんさん》には招待している。しかし、幸か不幸か、久美子さんのほうでそれを断わった。断わってよかったのかもしれない。その晩のことだ。村尾君が射たれたのは」 「あれは誰だったのですか?」 「例の連中さ。執拗《しつよう》に野上さんの足跡を嗅ぎながら追って来たのだ」 「なぜ、村尾さんを射つ必要があります?」 「警告だ。彼らはそう思っているだろうが、事実は威《おどか》しだな。だから、村尾君の命は助けてやったと思っているだろう」 「なぜ、そうする必要があったんです? その隣の部屋には、当の本人が泊まっていたじゃありませんか。どうして、そこを狙《ねら》わなかったんですか?」 「わからなかったんだよ。正確にはまだ野上さんがフランス人になっているとは彼らは知らなかった。何かを嗅いでは来たが、まだ本当の姿を突き止めてはいなかったのだ。Mホテルには、村尾君も入って来た。ぼくもあとから到着した。これは臭い、とかねて村尾君のあとをかぎ廻っていた連中は思ったに違いない。だから、村尾君を射てば、狙う対手が出てくるかもしれないと考えたんだろうね。また、当人が姿をその場に出さなくとも、この狙撃事件で一つのうねりが起こる。そのうねりの中からぽかりと野上さんの姿が浮かび上がってくると期待したかもしれない」  添田はしばらく黙った。 「それで、野上さんはこれからどうするんです?」  添田は滝を喰いつくように見た。 「フランスに帰るかもしれないが、その前に、本人はチュニジアあたりの砂漠をしばらく歩いてみたいとも言っていた」 「砂漠ですって?」 「野上さんにとっては、パリも砂漠も同じことさ。地球上のどこへ行っても、彼には荒野しかない。結局、国籍を失った男だからね。いや、国籍だけじゃない。自分の生命を十七年前に喪失した男だ。彼にとっては、地球そのものが荒野さ」  添田は腕時計を見た。久美子がホテルの前を車で出発して四十分経っていた。      25  トンネルを抜けると灌木《かんぼく》の密生林だった。道は、この林と、山の斜面の間に白く伸びている。  スポーツカーが、久美子の乗っている車を追い越して行った。林は黄ばんでいる。海が展《ひら》けてきた。  アメリカの旗を付けた白いボートが見えていた。甲板《かんぱん》に並んだ水兵の顔までわかりそうだった。 「灯台のあるところは、もっと遠いんですか?」  久美子が運転手に訊くと、 「その岬《はな》を廻ったところです」  という返辞だった。  夏場の海水浴場だったらしい跡が残っている。小屋が壊れかけていて、まだジュースの空缶《あきかん》などが積まれていた。  突き出た岬《みさき》を道が旋回すると、小さな広場に出た。バス、自家用車、タクシーなどがモータープールに並んでいる。そのすぐ横に洒落《しやれ》たレストハウスがあった。久美子が想像して来た以上に開けているのだ。 「ここから降りて歩いて下さい」  運転手はドアを開けて言った。 「灯台までは、徒歩でほぼ十二、三分です」  車はそのまま待たせることにした。  道は急に狭くなっている。だが、ずっと海岸沿いだった。いい天気なので、行楽客も多かった。久美子が歩いていると、何人もの男女と径《こみち》で往き遇った。若い人たちは上衣を脱いで、白いシャツになっている。歩くと、なるほど、汗が出そうなくらい暖かい日和《ひより》だった。  風が潮の香りを運んでくる。  すぐ崖の上に小さなユースホステルがあった。白い柵の中に青い万年青《おもと》が伸びている。建物は赤い煉瓦積みになっていた。これもこの風景にはしっくりと似合った。久美子はひとり愉しくなって来た。来てよかったと思う。吸い込む空気も潮の香の混じったものだし、歩くことが嬉しくなった。  灯台はまだ見えなかった。もう一つの岬を廻らねばならない。径はそこからゆるやかな勾配になっていた。  斜面の上が古い林なのである。見上げると、樹にカズラが捲きついている。湘南地方の尖端《せんたん》に当たるこの地方は、フウトウカズラ、サネカズラ、シイなどの亜熱帯海岸植物が群生している。  勾配の頂点を下りると、突然、目の前に灯台が大きく入った。それは海に迫った崖の上に建っていた。陽を受けた灯台の白堊《はくあ》が青い空にくっきりと輝き出ていた。  すぐ下の海岸は、浸蝕岩《しんしよくがん》が茶色っぽい肌を見せている。板をジグザグに積み上げたような恰好で海にさし出ていた。  久美子は、そこにしばらく立って見とれた。ほとんどの人がこの場所で感心するとみえて、彼女の背後にもあとから来た客が佇んでいる。  人といえば、渚《なぎさ》に近い岩礁の上にも、廂《ひさし》のように突き出た岩の上にも、二、三人の姿が見えた。径は灯台下の崖を廻って、さらに奥へつづくのである。その径にも若い人たちが列を組んで歩いていた。  久美子は脚を渚のほうに運んだ。前が房州の連山になっている。しかし、海を隔てているとは思えなかった。灯台下の岬を廻った地つづきのような感じだった。山の襞《ひだ》や、山崩れがあったらしい茶色の地肌まで、くっきりと見えるのだった。  一段と高い山の頂に雲が動いている。  久美子は、岩の上を注意して歩いた。浸蝕された岩は、到る処に火山岩のような孔をつくっていた。  海の水が押し寄せてきて岩と岩との間に流れ込んだ。それが忽ち川のようになって元へ逆流するのだった。蟹《かに》が匍《は》っていた。潮の匂いが強い。  久美子は、ふと、どこかで自分に注がれている視線を感じた。自分の立っている正面の岩ではない。そこには、若い二人が写真を撮り合っている。  彼女は視線を移した。  黒っぽい服装をした背の高い婦人が、かなりな距離に立っていた。今まで久美子が気が付かなかったのは、その外国婦人が彼女のあとからその場に到着したからである。黄色い髪が明るい陽射しを受けて白い炎《ほのお》に見えた。  久美子はあっと思った。  京都で遇ったフランス婦人だとすぐにわかった。向うでもそれを覚ったらしい。外国人らしい身振りで大きく手を振った。  久美子は歩いた。フランス婦人の背景に、灯台の建っている断崖がある。崖にもさまざまな樹がおい茂っていた。灯台に上る石段が、婦人の背中のすぐうしろにあった。この暗いまでに濃い色が、婦人の黄色い髪を浮き上がらせていた。 「|今日は、(ボンジユール・)|お嬢さん《マドモアゼル》」  婦人のほうから言葉を投げかけた。顔いっぱいに微笑がひろがっていた。青い瞳《ひとみ》が真直ぐに久美子を見つめている。 「|今日は、(ボンジユール・)|奥さん《マダム》」  久美子はフランス語で話しかけた。 「|京都から、いつ、こちらに廻っていらっ《カン・エト・ヴ・ヴニユ・ド・キヨート》しゃいましたか」 「|四、五日前です《イ・リ・ヤ・ケルク・ジユール》」  婦人はにこにこしていた。歯ならびのきれいな人だった。柔らかい髪が風に吹かれて震えている。 「ここでお嬢さんに遇おうとは思いませんでしたわ。ほんとに素敵です」 「わたくしも同じですわ」  久美子は、苔寺で自分の写真を撮ってくれたこの婦人の姿を思い浮かべた。すると、彼女の背景に青い楓《かえで》の下にひろがっていたさまざまな厚い苔が鮮烈《せんれつ》な色で見えてくるのだった。 「お嬢さんの写真は、きれいに撮れました。わたくし、大事にして、日本の最も懐かしい思い出にします」 「奥様のお役に立って、わたくしも嬉しく思います」  フランス婦人は口の中で呟《つぶや》いた。 「奇蹟ですわ」  そう言ってるのだった。 「たしか、南禅寺でもお見かけしましたわね。苔寺のあとはMホテルでしたわ。そして、今日は、思いがけなく、ここであなたにお遇いしました。素晴らしい奇蹟です」  婦人の趣味は、どちらかというと、地味に見受けられた。色彩も外国人の風習と違って、むしろ日本人の感覚に近い、柔らかな中間色で統一されているのだった。 「お嬢さんは、ここには一人でいらしたんですか?」  婦人は久美子に訊《き》いた。 「はい、そうです」 「やはり、この海を見にいらしたのですか?」 「そうなんです。とてもいい景色だと聞いていましたので」 「ほんとにいい景色です。京都も素晴らしかったが、ここも素敵です」  婦人は青い瞳を海に向けた。折から、大きな貨物船がゆっくりと水道を上って来ているところだった。房州の山の一部に陽が当たって、そこだけが照明を当てたように色が鮮かになった。 「わたくし、主人と一しょに来ていますの」  フランス婦人が横で言った。 「え?」  見上げると、婦人のバラ色の頬に、いかにも嬉しげな微笑が出ていた。 「ご紹介します、お嬢さん」  止める間もなかった。婦人の背の高い姿が久美子の傍から二、三歩離れた。これはうしろに向かって合図をするためだとわかった。  久美子の眼に、ゆっくりとこちらに歩いてくる黒眼鏡の老紳士の姿が映った。髪の殆《ほとん》どが白かった。しかし、顔は日本人そっくりだった。いや、この顔だったら、久美子も南禅寺で知っている。方丈《ほうじよう》の広い縁に、この夫人と一しょに腰を下ろして、庭の石組みを眺めていた。ほかにも外国人の観光客がそこにいたが、この紳士の横顔は、庭の美しさに呆《あき》れたようになっていたのだ。今でも、その白い砂が眼に残っている。  久美子は、最初に見たときは、その人がスペイン系の男ではないかと感じたのだが、今、紳士がこちらに歩いてくる顔を見ると、明らかにそれは日本人だとわかった。日本人以外にはこんな落ち着いた憂鬱げな表情はしない。  しかし、紳士は久美子の前に来ると、黒い眼鏡の奥からやさしい眼をなげかけた。  夫人はなぜか、久美子を夫に紹介しなかった。久美子はちょっと戸惑《とまど》ったが、 「|今日は《ボンジユール》」  と紳士に挨拶した。 「|今日は、(ボンジユール・)|お嬢さん《マドモアゼル》」  老紳士は返した。きれいな発音だった。 「|フランス語がお上手ですね《ヴ・パルレ・ビヤン・ル・フランセ》」  紳士は微笑しながら久美子のすぐ近くに並んだ。今まで夫人がいた場所である。  夫人が何か思いついたらしく、夫に小声で話しかけた。久美子の耳にも、夫人が灯台へ上って来たいのだということがわかった。気を付けてゆくがいい、と夫は妻に答えた。 「じゃあ、あとで」  夫人は久美子に小さく手を振った。  なぜ、あの夫人は夫だけをここに残したのだろうか。見方によっては、この夫人とは思えない無作法な行動だった。 「海へ行きましょう」  紳士は、突然、日本語で言った。 「そうだ、あの岩がいい。あすこまで一しょに行ってみませんか?」  指した方向は海が白い泡を立てているところだった。  足もとに波が砕けていた。白い泡が揺れている部分だけ海の色が違う。透き徹るような緑色だった。  見ると、下のほうに突き出た岩に、一人の男が立って釣竿を構えていた。 「疲れた」  と紳士は言った。 「失礼して、ここに掛けることにします」  無造作に、岩の上に腰を下ろしたものである。どっこいしょ、と自分で言った。わざと年寄らしい磊落《らいらく》さを見せたのだが、これはやはり日本人のしぐさなのだ。 「掛けませんか?」  老紳士はふいと顔を捻《ね》じ向けて、久美子を見上げた。黒眼鏡だが、実に人懐かしげな表情だった。 「そこがいい」  と自分で場所を決めて、ポケットからハンカチを取り出し、その上にひろげた。 「すみません」  久美子は恐縮した。 「なに、いつまでも立ってると疲れます。掛けなさい」  久美子は不思議な胸のときめきを覚えた。たったいま口を利いたばかりの紳士だったが、なぜか、そこに言いようのない親しさをおぼえた。節子の夫芦村亮一にも、これほどの親しさを感じない。いわば、この老紳士のもっている年齢的な雰囲気と、その風貌によるものだろうか。顔には深い皺が多かった。 「失礼します」  久美子は素直に紳士の敷いてくれたハンカチの上に坐った。風がときどき波の飛沫《しぶき》を運んだ。 「わたくし」  と久美子は自分の名前を口に出さないわけにはいかなかった。 「野上久美子と申します」 「そう」  紳士は深くうなずいた。黒眼鏡をじっと海のほうに向けたままだったが、その名前を全身で受け入れているようだった。  雲が動いて、海の色を一部変えている。 「……いい名前ですね」  紳士は言った。 「そうだ、わたしの名前を言わなければならない。わたしはヴァンネードという名前です」  久美子は、その外国人名と、この紳士とがすぐに結び付かなかった。異《ちが》った人の名乗りを聞いたような感じだった。  フランス名だが、この人は、その父親か、母親かが日本人だったに違いない。そして、永い間、日本の教育を受けてきた人であろう。いや、日本人だって、これほどの教養を感じさせる人物は、そうザラにないと思った。やはり、フランス人としての生活がそのあとに長く加わったせいに違いないと考えた。  どう考えても、これは日本人なのだ。 「不思議そうに見ていますね」  ヴァンネード氏の横顔が、それと気づいたか、ほほえんだ。 「誰でもぼくを日本人だと思います。いや、そう思われることは当然ですがね」 「やはり永い間、日本で?」 「そうなんです」  フランス人紳士はうなずいた。 「日本の大学を出ましてね。それまでもずっと日本でしたが」  やはりそうだった。だが、この老紳士の日本語を聞いていると、純粋の東京弁なのだ。外国人としてのぎごちなさは少しもない。日本語がこの紳士の皮膚になっていた。  紳士は背を丸めていた。この恰好も日本の老人そのままの姿勢なのだ。日向ぼっこしながら、縁側に坐って盆栽か何かを眺めている、それと同じ姿だった。  しかし、紳士の横顔には黒眼鏡をかけているせいか、別な厳しさがあった。決して盆栽を見ている眼ではない。何かを独りで考えて見詰めているような、沈んだ厳しさがあった。そういえば、この紳士の身体全体に暗い雰囲気がある。蒼い海に対《むか》ってぽつんと坐っている姿に、暗い孤独が感じられた。  久美子は話のつづきが出来なかった。  彼女は、ふと、南禅寺の方丈の縁側に腰掛けて庭を見ている同じ姿を見出した。あのときも、たしかに、この恰好だった。 「お嬢さん」  紳士は海に対ってぼそりと声を出した。 「お母さまはお元気ですか?」  声は少し嗄《しわが》れていた。 「ええ、お蔭さまで」  と自分も、日本人の年配者に話しかける言葉になっていた。 「そう。そりゃいい……お母さまも、あなたのようなお嬢さんがいると、どんなにかお喜びだろう」  久美子は黙って軽く頭を下げた。──しかし、ふと、妙なことに気づいた。なぜ、この老紳士は母だけのことに触れるのであろうか。普通なら、この場合、ご両親は、と訊くはずなのだ。 「どこかに勤めてらっしゃるんですか?」  紳士はまた訊いた。 「はい」  久美子が勤め先を答えると、 「そりゃ結構」  と上品な顎をひいた。 「お嬢さんの年ごろだと、結婚も間近いでしょうね?」  久美子はほほえんだ。はじめての挨拶には、少し話が立ち入りすぎていた。しかし、久美子はそれが少しも気にならなかった。心が咎《とが》めないというのはどういうことだろうか。この老紳士の持つ不思議な親しみからきているとしか思えなかった。 「そりゃお母さまも二重のお喜びですね」  話はずっと前から知り合った同士の会話になっていた。が、久美子には不思議と抵抗がないのだ。いや、それよりも、この年配の紳士の雰囲気に自分が素直に溶け込んでゆけるのだった。  釣りをする男が竿を大きく振っていた。魚を操《あやつ》っている動作だった。  ふと、気が付くと、紳士は胸からハンカチを取り出して、黒眼鏡をかけたまま自分の顔を拭《ぬぐ》っていた。  暑い季節ではない。むしろ海の風が寒いくらいだった。紳士は久美子の注目に気が付いたらしく、 「どうも、波の飛沫が顔にかかっていけない」  と独り言を言った。 「ぼくは」  と紳士がそのあと急いで言った。 「明日は、日本を離れることになっています」 「まあ、ご帰国なさるんですか?」 「ええ、そのつもりなんですが」  紳士は坐ったまま上体を少し動かした。 「日本での最後の日に、お嬢さんのような方に遇えたのは、有難かったです」 「………」 「ぼくは日本に来て、ほんとうにお嬢さんのような人と話したかったんです。だから、今、あなたと話をするのが、とても愉しいんです」  その言葉は、久美子にも嘘はないように思われた。事実、このフランスの老紳士は、先ほどからその喜びを顔いっぱいに表わしていた。が、それは外国人流の露骨な表現ではなく、感情を抑えた様子だった。これも日本人の性格だった。 「愉しかった」  と彼は言った。 「お嬢さんにお訊きしたいのですが」 「何でしょうか」 「ぼくをどう思いますか?」  突然の質問だった。久美子はとまどったが、率直に自分の感じを言ったほうがいいと思った。 「とても……とてもいい方のように思います」  それではまだ自分の気持が言い尽せなかった。 「……親しい方にお逢いしたようですわ。自分の一番懐かしい人に逢った気がするんです」 「ほう」  紳士がこちらを向いた。深い眼差しが久美子の顔をつくづくと眺めた。 「そう思ってくれますか? ほんとにそう思いますか?」 「ええ。失礼なんですけど」 「とんでもない。有難う。有難う。お嬢さんからその言葉を聞いて、ぼくはとても嬉しいと思います」 「もっと早くからお近づきになって、奥様とご一しょにいつまでもご交際しとうございました」 「その点、ぼくも残念です」  紳士は顔を大きくうなずかせた。 「お嬢さん、お願いがあるんですが」 「はい」 「いま言ったように、ぼくは明日日本を発ちます。それでその思い出に、ここでお嬢さんにぼくが子供のころに習った歌を歌ってあげたいのです。聞いて頂けますか」 「………」 「いや、童謡ですよ。子供の歌です、うまく歌えませんが」  久美子は微笑した。 「どうぞ、お聞かせ下さい。どうぞ」  老紳士は明日日本を去るという。日本の童謡を歌いたくて聞き手に飢渇《きかつ》していると直感した。事実、久美子が承知すると、対手は喜んで、姿勢まで変わった。海のほうを向いて背を伸ばしたのだった。  老紳士が歌った。歌詞の半分を忘れているようだったが、それに久美子があとをつけた。二人の歌は海の音にときどき取られた。  野上顕一郎は自分でも低声《こごえ》で歌いながら、全身に娘の声を吸い取っていた。   カラス、なぜなくの   カラスは山に   かわいい七ツの子があるからよ   …………   …………  合唱は波の音を消した。声が海の上を渡り、海の中に沈んだ。わけのわからない感動が、久美子の胸に急に溢れてきた。  気づいてみると、これは自分が幼稚園のころに習い、母と一しょに声を合わせて、亡父に聞かせた歌だった。     (文中の童謡は野口雨情作詞「七ツの子」より)  本書は一九七五年に刊行された文春文庫の新装版(二〇〇三年刊行)を底本としています。 〈底 本〉文春文庫 平成十五年七月十日刊